2007年10月28日日曜日

メルロ=ポンティ入門

著者名 ;船木亨  発行年(西暦);2000 出版社;筑摩書店
「ポストモダン」とか「実存主義」とかいうのは疲れる。たまにこうした世界にたちかえることもある。でもしんどいので「長居」ができない。サルトルの実存主義についてきわめて簡略にまとめられており、人間は基本的に自由であり、自由であるからこそ自らの行為に対して責任をもつ。だったらもう自分から行為を進んで引き受けるべきだ、それこそが実存主義的だ…というやや「疲れる」内容となる。サルトルに影響を受けた人は結構多いが、マルクス主義者以上に時には疲れ果てている印象を受けることがある。サルトルの実存主義が「義務的」な面が強く打ち出されているからかもしれない。またマルクス主義については、ある段階でふっきれてしまうと後に尾を引きにくい要素が多いと思う。元マルクス主義者がその後高級官僚となり自由構造改革路線や新保守主義者に転じやすいのは、ある種の「明晰さ」がマルクス主義者にあるからかもしれない。その点サルトルっていうのは、すべてが自由選択という立場から派生してくるので転向するのも自己責任だし、就職するのもしないのも自由意志の結果というように考えていくと「結果」も含めてすべて自己責任。これって非常に疲れる。でも疲れることこそが実存主義なのかもしれない。
 メルロ・ポンティはそうした実存主義とは一線を画すようだ。経済学や生物学などからはみだした一種の「雰囲気」「言語」「感覚」そうしたものの総体を実存とする。このほうが実は人間にとっては非常に楽だししかも伸びやかな思想が生まれるのではないかと思う。社会科学の論理や近代経済学の論理を包含してさらになおかつ、その枠からはみ出たりあるいは背後に隠されたりするイメージの総体が実存とすると、他の客観的な諸科学との共存も図りやすい。「意味空間」という用語が用いられているが、言葉とか行動とか出来事などによって大概は説明されつくされるものの、それでも説明しきれない一種の「質感」。それが実存なのであり、となると既存の価値観を測定する指標、たとえばGDPとか株価指数とか年収とかといったインデックスもあながち無意味ではないにせよ、さらにそれを超えた幸福感みたいな「意味空間」、それが実存ということなのだろう。
 となるとサルトルのような孤高の哲学者というよりも、むしろ日常感覚に程近い哲学者がメルロ・ポンティということになりそうだ。ほかの理論を否定することにはならない。経済白書や有価証券報告書を参考にしつつ投資に関する意思決定をなす場合、たしかに数値や理論は一種の一般原則となりうるがその場合の意思決定の内容は人間の自分自身をかける決断ということになる。そこにもし「意味空間」を創出できるとするならばそれこそが実存的な生き方ということになるわけだ。これって無意識のうちに誰しもが実践していることだと思う。結婚するという意思決定はやはり自己特有の意味空間を作り出していることになるわけだし、知覚や感覚もそのときに創出されるわけだ。こうした伸びやかな哲学思想であるならば十分受入可能だし、しかも日常生活を、終わりなき日常生活をいきぬくことができる。
 哲学者がどうこういおうと、人間は毎日働いてお金を稼がなければ生らない現実があるし、周囲の人間に対しても日常的な配慮が必要になる。サルトルの「嘔吐」を読んでもそうした日常生活がただ単に味気なく思えてくるだけだが、メルロ・ポンティの実存主義であればむしろ毎日が新しい意味空間の創出と思えてくる。歴史に名を残すかどうかといった問題ですら実はさして重要なことでもなく、意味空間あるいはイメージ的な「感覚」がどこかしらに継承されていくのであればそれで十分実存的、というきわめて楽でしかも実践的なライフスタイルにつなげることができる。
 「思想」や「哲学」が日常生活を制約したり、行動を強制するのはおかしい。マルクス主義者の発言が息苦しいのは、理論が生活を制約するからだと思う。実存主義者やマルクス主義者の多くが高度経済成長期にはサラリーマンとしてGDPの増大のみに時間を費やしたのは、哲学と日常生活が切り離されるという不幸があったからかもしれない。どうしたって人生には不幸もあれば死別もある。そうしたときの言葉・しぐさ・感情といったものを包含できる意味空間。案外ウェブの時代には意味空間ってさらに大きな意味を持ち始めるのかもしれない。

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