2008年8月27日水曜日

野村再生工場(角川書店)

著者:野村克也 出版社:角川書店 発行年:2008年 評価:☆☆☆☆
 現在,東北楽天ゴールデンイーグルスはパリーグ最下位に沈むが,球団初年度のときのあの惨憺たる最下位とは異なり,まだ6位から5位へ,5位から4位へと上りきろうとする意気込みを感じる。それに,ソフトバンクや西武といった強豪チーム相手に弱小球団の楽天がいかに闘うのかは,ニュースやブログなどでも非常に楽しみだ。強くなくてもファンがそれなりに根強くいるのは東北という地域密着と他球団を解雇された選手が「復活」して活躍する場面が非常に多くみられるチームだからに違いない。「失敗と書いて成長と読む」などという,ちょっと抹香くさくはあるが,失敗して痛手をこうむったことがある人(私を含む)には非常に嬉しい言葉だ。失敗をそのままにせず,分析して次の課題に活用する。それが最大の戦略的生き方でもある。平均レベルより特に際立った能力がない人間にとっては,「知恵をしぼる」しかほかに方法はない。野村監督の本の面白さは,際立った特色のない選手がいかに「自分にきづくか」「満足と妥協と限定をしないか」といったいわば人間ドラマのエピソードが豊富に語られている点にある。必ずしも野村監督のファンでない人であっても,内容にうなづく箇所は当然多いだろう。「結果ではなくプロセスを重視する」といった観点も非常に大事で,結果論ですべてを語ると,たとえば成功者の成功談のように一方的なオカルトチックな「信条」物語になってしまうが,楽天の場合には,毎週のように順位や試合の勝敗で結果がでてしまう。「観察」や気づきの重要さはこの新書の中で語られている「ヤマのはりかた」の合理性にも見て取れる部分がある。「プロセス」を重視するのであれば,結果が悪ければ,当然,「変化」することも恐れない。未来は予測不可能だが,かといって過去をないがしろにはできないというあたりまえの事実から,未来の野球論をこうして70歳を過ぎても語る熱意に頭が下がる思い。

2008年8月25日月曜日

和田秀樹の最終最強知的生産術(毎日新聞社)

著者:和田秀樹 出版社:毎日新聞社 発行年:2008年
評価:☆☆☆
 新書よりちょっと大き目の変形サイズの書籍だが,約11冊分の過去の著作物の要約とさらに新しい情報を加えて出版された和田秀樹ワールドの入門書でもあり,和田ファンにとっては「一種の復習効果」にもなる本。「心を開かせる技術」や「すべらない敬語」など巻末には和田秀樹氏が推薦する新書も掲載されており,非常に中身の濃い一冊。最近は学習本や脳科学関係の本がかなりでるようになったが,本家本元はやはり和田秀樹氏ではないかと個人的には考えている。「いかに勉強するか」「どうして勉強が大切なのか」といったことをオカルトではなく精神医学の観点からも明確にしてくれた功績は大きい。和田秀樹氏の理論をベースにしてさらに文房具やノートの使い方など細かな部分ではマインドマップやメモの取り方などといった個別論点にブレイクダウンしていくのが一番学習方法の習得するには速いのではないかと思う。最近流行しているフェルミ推定も確かに仮説を立案する上では有効だろうが,そもそもテレビや飲み会ばかりの生活から学習をしてみたいと思っている人にはレベルが少し高すぎる。日々の生活にちょっとしたアクセントをつける一つの「きっかけ」として本書は利用するのに最適ではないかと思う。

2008年8月20日水曜日

深追い(新潮社)

著者:横山秀夫 出版社:新潮社 発行年:2007年
 架空の警察署「三ツ鐘署」の異なる部署に勤務する7人の男のそれぞれのドラマを短編集として一冊にまとめあげたもの。「建物」という空間の中に相互にまったく面識はないが,かなりの時間を共有している人間たちが,それぞれ現在の仕事に,あるいは過去の想い出に,あるいは家庭の中にドラマをかかえもち,それがある日,動き出す。どれも最初は些細な出来事なのだが,それが次第に奥深い人間模様を描き出す。日常生活になれきったある思いもかけないときに,「とんでもないこと」に巻き込まれたことは,大抵の人にはあるはずだが,その「ある日起きたとんでもないこと」に同じ建物の中の人間たちがそれぞれ別の日に別のシチュエーションで巻き込まれていくのが面白い。これが単にバラバラの「建物」のバラバラの人間が登場するだけではこの短編集はここまで面白くはならなかっただろう。個人的には「会計係」のある日を描いた「人ごと」が切なく侘しく,そして最後に「救い」がほのかに見えるのが好き。

2008年8月19日火曜日

動機(文藝春秋)


著者:横山秀夫 出版社:文藝春秋 発行年:2002年
 文庫本化されたのが2002年で購入したのは,2005年3月5日第20刷…。横山秀夫ファンが数知れないほど多いことを実感させてくれる数字だ。日本推理作家協会賞受賞。署内で一括管理される30冊の警察手帳が紛失するという事件をめぐり,その真相にたどりつくと…という展開。警務部と刑事部の対立なども細密に書き込まれて,読んでいくうちにどんどん横山ワールドに引き込まれていく。ミステリーではあるのだが,厳密な「仕掛け」にこだわるというよりもやはり個々の人間の個性とその「からみ」の描写が非常にうまい。「密室の人」という短編が最後に収められているがどろどろの人間関係の中から一筋の光がさしてくる終わり方になっている。「救いのない展開」というのもミステリーであれば当然ありうるが,人間模様の中に常に救済の光と暖かい視点がかいまみせるのがまた横山秀夫氏の作品の魅力ではないか。

2008年8月18日月曜日

陰の季節(文藝春秋)

著者:横山秀夫 出版社:文藝春秋 発行年:2001年
 単行本で出版されたのは1998年。ただし10年間という時間の経過を感じさせない斬新さだ。短編集だが,そのそれぞれが膨らませられ,あるいは他の短編と一緒に統合される形でテレビ番組として放映。いずれも人気を誇るシリーズと聞くが,原作もやはり素晴らしい。第5回松本清張賞を受賞した短編集だが,警察内部の各部署の思惑や組織維持の原理が小説仕立てで細かく設定されており,非常に面白い。実際の警察署がどうとかこうとかという問題ではなく,面白いかどうかは,「準拠枠」をしっかり設定しているかどうかにかかっている。「吸血鬼ドラキュラ」が名作であり続けるのは,物語の「準拠枠」がしっかりしているからこそであって,「ドラキュラなんてこの世に存在しないよ」といってしまえばそれまで。エンターテイメントの最大の魅力はしっかりした設定と細かい状況の描写。そしてその準拠枠の中で納得のいく物語の進行だ。胃潰瘍の術後の検診のあとに県警本部に戻ろうとする人間など,実際にありうるであろう等身大の人間たちがこの短編集の中で等身大の活動を相互におこない,相互に思わぬ結果を導き出す。人間ドラマとしてこれ以上の「仕掛け」はあるまい。

クライマーズ・ハイ(文藝春秋)


著者:横山秀夫 出版社:文藝春秋 発行年:2006年 評価:☆☆☆☆☆
 読んだのは文庫化された2008年6月1日第8刷のもの。単行本は2003年に発刊されている。傑作長編ということで,冒頭の2~3ページから一気に群馬県にあるという架空の北関東新聞社の世界にどっぷりつかってしまう。ミステリー小説というよりも,これはもう突然の大事故をめぐる地方新聞社を中心とした人間模様のドラマだ。今年7月に映画化もされたが,8月12日の御巣鷹山の大事故をめぐるメディアの人間模様を描写した力作だ。そして17年間の時間が経過…。おそらくこれに類した話はどこにでもあるのかもしれないし,主人公と同じように年月を過ごした新聞記者も存在する可能性は十分にある。リスクがあるとわかって自分の一生をすべてかけてでもその「山」にかけた新聞記者。人間模様を描いた小説であると同時に,企業小説としての性格ももつ。名作だ。

2008年8月17日日曜日

日本共産党(新潮社)

著者名:筆坂秀世 出版社:新潮社 発行年:2006年
 新潮社はこのほかにも「創価学会」という新書を出しているが,なかなか触れにくいテーマを新書サイズで思いきった著者起用で出版。「新書」が売れる時代にふさわしい出版ともいえるが,他の出版社にはなかなかできないワザを見せてくれる。細かい事実経過そのほかについては立場によって異論もあるようだが,これまで知られなかった事実が公開されているというのは間違い事実。党費についても実収入の1パーセントというのは初めて知ったのだが,それ以外に党員の方々は「赤旗」や雑誌の購入も必要というだけあって,なかなか財政的には苦しいのは想像がつく。「給与遅配も珍しくない地方組織」というのも「ありうるなあ」と思ってしまった。74ページには電話による選挙運動が著述されているのだが,これも実際に私個人は受けた記憶があり(他の政党もあるので特別にこの政党の問題だけではないが),一部の党員に負荷が集まるという指摘にも納得できるものがある。あとは考え方や路線の問題については部外者からはコメントできるものではないので,ただ「読んだ」としかいいようがないが…。創立84年の老舗の政党ではあるが,さすがに路線変更そのほかや組織の維持体制,さらに「細胞」という独特の活動なども路線変更がせまられているように感じられる。とはいえ2006年発売から若干動きが変わってきたのは「蟹工船」がベストセラーとなり,若手の加入が増えたということだが…。「対立軸」が体制というよりも現実主義的な経済政策や社会保障のあり方ということになると,やはりこの政党のもつ政策のリアリティには相当に疑問符がつくのは事実。あとは選挙を重ねて政党政治の図式が変化していくのを待つ事になるだろう。680円の新書だが,「知らない世界」を知る手がかりにはなるとは思う。

霞ヶ関埋蔵金男が明かす「お国の経済」(文藝春秋)

著者:高橋洋一 出版社:文藝春秋 発行年:2008年 評価:☆☆☆☆☆
 「小さな政府」か「大きな政府」かという大きな対立点から見て行くと,高橋洋一氏は「小さな政府」のほうがベターと考えているようだ。インタビュー形式でまとめられた新書サイズの本だがさすがに文藝春秋社だけあって,内容は深くて濃い。章立てもわかりやすくまとめられており,インタビュアーの質問も鋭い。埋蔵金の本当の意味やそのネーミングのいわれなどが第1章から語られるが,やはり「これから」を語る第4章がことさらに面白い。国家公務員制度改革などについて語られているのだが,「年功序列の廃止」と「天下りの廃止」のための「人材バンク」についてその基本構想が明らかにされる。内閣人事庁を設立して省益中心の人事を打破して内閣のコントロールを強めていく…。どう考えても全省庁すべてから総スカンをくらう内容だが,興味深いのは,「根底には経済理論がある」と前書で断り書きがしてあること。単に省益を打破するというだけではなく,限られた人材資源(ヒューマンリソース)を適材適所に配分して生産の効率性を高めていこうという思想も見え隠れする。20代,30代の官僚からは密かに支持されていると著者は語るが,おそらくそれは事実だろう。ただし40代,50代はもはや「天下り直前」であるため,20代,30代よりも切実な問題が目の前に横たわる。公務員改革を断行するにはまだ10年以上はかかるかもしれないが,今の若い世代が「天下り直前世代」に突入するとまた局面は変化するかもしれない。正直,「省庁」とはいっても20代前半にまず国家試験に合格したあとに,省庁をまわって面接,それから入省という形になるわけで,それほど一般企業と就職形態が異なるわけではない。本当は財務省に行きたかったがやむなく○○省しか内定がでなかった…という官僚もいるはずだし,そうした「第二志望就職」のキャリアの中には,「本来はこの仕事は向いていないのだが…」とぶつぶつ言いながら毎日を過ごすこともあるかもしれない。しかし省を離れて人事庁ができれば,かなり仕事の「幅」は広がる。一つの組織内の閉鎖された中で事務効率や人間関係を構築するよりももっと広い分野の仕事に挑戦できるわけだから,若手官僚は「ひっそり」支持することもあるだろう。そして「三位一体」(地方交付税,地方税,補助金)のうち地方交付税について「なんのしばりもない」ので地方公共団体にはありがたいシステムと指摘し,地方税の税源委譲や地方分権への橋渡しについて減給されるところが圧巻。最終的には道州制の話までいくのだが,そこまでは実際には難しいのではないかとさすがに思う。ただし一つのモデルがコンパクトなこの新書サイズで示されているという内容の充実度は最初から最後まで素晴らしい。☆5つだが,実現可能性については実際のところ10パーセント以下ではなかろうか。ただ一つの「指針」として提示した内容は意味あるものだと考える。

2008年8月16日土曜日

夢をかなえるゾウ(飛鳥新社)

著者:水野敬也 出版社:飛鳥新社 発行年:2007年 評価:☆☆☆
 2007年に発売されて現在な,なんと130万部を超える売上高,さらにはドラマ化も決定しているという不思議なビジネス書籍(というか小説というべきか…〉。インドの「金持ちの神様」ガネーシャが一応主役ということになるが,オシャカ様なども登場してきてお笑いが多数散りばめられている。個人的には非常に大受けしたギャグばかりだったが,130万人の読者のうちはたして本当に笑えたのは何人いたのか…。「他人の中に足りない部分をみつけてそこに愛を注いでやる」というきわめて「当たり前」で,しかしなかなか実行できないことをずっと小説仕立てで著述していく。「種明かし」というわけではないだろうが巻末の参考書籍一覧などは読み終わったあと非常に興味深いものになるだろう。実行そのものが大事,ということを著者が最重視しているせいか,印税の一部も福祉団体そのほかに寄付されるとのことだ。以前,新宿の紀伊国屋書店新宿南館にわたる廊下を東急ハンズから歩いていると,場内整理をしている様子にでくわした。紀伊国屋書店でのサイン会は珍しくはないが,たまたまその行列の先でサイン会を開いていたのがこの著者の水野敬也氏だった。あの行列の長さからいって,この本のファンはかなり多いし,実際に本の内容を実行に移した人もかなりいるのだろう。1分100円の「ホメ殺し屋」から文筆業に転じた水野敬也氏。あたりまえではなかなか思いつかないアイデアを実際に実行して自分自身でその「成果」を証明してみせるあたりが非凡。

震度0(朝日新聞社出版)

著者名:横山秀夫 出版社:朝日新聞社出版 発行年:2008年
 文庫本で定価800円とちょっと高目の価格設定なのだが,なんといっても500ページ近い分量のN県県警本部警務課長の失踪事件を念入りに描写。架空の警察公舎の中で渦巻く人間模様に飲み込まれるとあとはそのまま物語の人間関係に飲み込まれっぱなしでラストにたどりつく。電話の会話からうかびあがるフォーマルな人間関係以外のインフォーマルな人間関係。どこの会社でもどこの官庁にでもありうる話だが,表向き一枚看板であるはずの県警本部の公私を舞台に失踪事件を扱う腕前がやはり見事。一種キャリアの描写はこれまでも「そんなのいないよ」というぐらいカリカチュアライズされた描写が多かったが,横山秀夫氏はおそらく実際に現場で指揮をとるキャリア一種出身の管理職を目にしていたのだろう。カリカチュアライズされた一種キャリア警察官僚ではなく,リアリティのある描写になっていると同時に,これまで「叩き上げ対キャリア」という図式の中にⅡ種キャリア出身の警察官僚も登場させてこの物語に登場させる。「自治体警察」の中でのⅡ種キャリアというものの存在をこれまですっかり失念していたが,確かに出自がいろいろある警察の中で会議を開いた場合には,この本に描かれているような微妙な会話と責任の取り方になっていくのだろう。ミステリーという「枠」よりも,人間模様を描いた小説として一気に読み終わってしまう。

2008年8月14日木曜日

第三の時効(集英社)

著者名:横山秀夫 出版社:集英社 発行年:2006年 評価:☆☆☆☆
 「警察小説」の新たな地平を開いたといわれる横山秀夫の著作物にはまっている。とにかく面白いのだが,なぜゆえに面白いのかというと,おそらくむちゃくちゃ天才的な刑事とか体力勝負の刑事が大活躍といった展開とはまるで逆の,どちらかといえば企業小説にも通じるドロドロした人間関係の中から浮かび上がる真相のプロセスが面白いのだろうと思う。舞台を警察署から企業や政府自治体に移してもおそらく同じような物語はあるのだろうけれど,新聞記者として実際に取材活動にたずさわっていた横山氏だからこそ書ける細部までの描写ゆえの名作短編集なのだろう。この「第三の時効」ではめずらしく警察署の花形部署「捜査一課強行犯捜査」の一係から三係までの各刑事が主役となる。地方裁判所での逮捕した容疑者の罪状認否を聞きに傍聴席に向かう理由そのほかがまたリアリティがある。特に二班の班長楠見の人物描写がすさまじい。公安警察から異例の「表舞台」の強行犯担当の班長に抜擢。機械装置のような取調べから容疑者の割り出しなど,小説とはトテモ思えないほどリアリティのある人物描写だ。3人の班長がそれぞれのキャラクターを活かして捜査にあたるがそれぞれの「班」ごとに功績を無言で争う描写もまたリアル。「いかに早く適正に逮捕して刑務所に送り込むか」という男だらけの美学の世界。ドライな世界の中に微妙な「泣かせ」の文章が入るのが心憎いばかり。

餃子屋と高級フレンチでは,どちらが儲かるか?(ダイヤモンド社)

著者名:林聡 出版社:ダイヤモンド社 発行年:2006年
 会計書籍の中でもベストセラーを記録した本だが遅ればせながら一読。非常に面白い。「もし突然社長に就任したならば…」という設定で自己資本や他人資本といった基本用語の解説から始まり,最後はバランス・スコア・カードの説明で終了する。原価計算をまったく知らない人にも一応の重要用語の説明がされているので理解可能ではなかろうか。ただもっともこの本を楽しく読めるのはある程度実務に携わった人か,原価計算を一定程度学習し終わった人だろう。「経営ビジョン」の設定を具体的な項目にブレイクダウンしていく様子が小説仕立てで説明されているのがイメージ的に理解しやすい。「学習の視点」(価値観,情報の凝縮など)→「業務の視点」(営業活動,製品開発力など)→「顧客の視点」(品質アップ,時間の節約,労力やお金の節約など)→「財務の視点」(収益増大など)といったバランス・スコア・カードのオリジナルな応用も展開。実は続編のほうから先に呼んでしまったのだが,やはりこっちの「餃子…」のほうが面白くてしかも原価管理などの本質について著述されていると思う。

2008年8月9日土曜日

臨場(光文社)

著者名:横山秀夫 出版社:光文社 発行年:2007年 評価:☆☆☆
 警察の初期捜査で事件現場を調査・監察して初動捜査にあたることを「臨場」と言うそうだ。たとえば死体が発見されたときに自殺か他殺かなど初動捜査の方針を立案する。L県警本部刑事部捜査一課の倉石義男捜査一課調査官が主人公。ベテラン刑事からは「校長」などと親しみをこめてよばれることも多いが偏屈な側面も。職人肌の倉石は「終身検視官」との異名も取っていた。ミステリーとして小さな植物の種類や特性などももちろんだが,現場の「匂い」などわずかな手がかりも逃さず,「現場」に起こった出来事を類推する。壮絶なのは「17年蝉」という短編だ。倉石自体の「その後」も類推させるエピソードだが,なによりも深い人情がこめられたその捜査ぶりに胸が熱くなる。16年間土の中にいて17年目に飛び立つ蝉。それは,過去に「いろいろあった刑事」の心をも解放する。それぞれの人間がそれぞれの事情を抱えてそれでもなお「法律の都合」を超える犯罪者となる瞬間に倉石の捜査は人情味をかなぐりすてて深層までつきつめていく。冷酷ともいえる瞬間だが,最後の最後に,読者は倉石調査官から「餞」をもらうことになる。面白い短編集であることはもちろんだが,職人肌の人間は「職」だけのことではなく「人」についても考えをつきつめていくという人情小説でもある。

2008年8月8日金曜日

顔 FACE(徳間書店)

著者名:横山秀夫 出版社:徳間書店 発行年:2002年
 D県警広報室に勤務する平野瑞穂巡査を中心に展開する「顔」「似顔絵」をテーマにした警察小説。全部で5つの短編小説が納められ,主人公のかつての失踪事件などもからめつつ,次第に上層部との「取引」も覚え,ラストにはついに銃を犯人に向ける…。「観察力」と「デッサン」の力を両方あわせもち,単に強行犯対策にたけた警官ばかりでなく,多種多様な能力が実際に必要な場面が増えてきているのだろう。小説の中ではかなりの「大ポカ」も紹介されているが,似顔絵を描く力がそのまま観察力が活用された事例として物語りに活かされている。小さな警察署が舞台ではあるが,各課の人間模様や宿舎の様子などがリアルである。同時進行でいろいろな立場の人間の心模様を描くスタイルが非常に面白い。ある人からみたある人の印象が,また主人公を変えると別の側面が見えてくる。特殊な社会ではあるが,特殊な社会であるがゆえに人間の複雑な陰影がまた見えてくる。こうした物語を紡ぐことができる横山秀夫氏,やはり新聞社で実際に「地回り」など取材を重ねてきた経験が活かされているのだろう。いわゆる「隠語」が飛び交う会話も生々しい。

2008年8月5日火曜日

キャズム(翔泳社)

著者名:ジェフリー・ムーア 訳:川又政治 出版社:翔泳社 発行年:2002年 評価:☆☆☆☆☆
 ハイテク企業向けのマーケティングの書籍だが,もはや古典というか定番の書籍。定評は前々から耳にしていたが実際に読んでみると「なるほど」と思う分析理論が満載。よくあるライフサイクル曲線をそのまま鵜呑みにせずに,イノベーター,アーリー・アダプター,アーリー・マジョリティ,レイト・マジョリティ,ラガードと市場もしくは消費者を5タイプに分割し,それぞれの消費者の間には「キャズム」(chasm),溝が存在すると分析。さらにそのキャズムを乗り越えるためにはどうすればいいのか。アーリー・マジョリティの市場に食い込むのにはどういったマーケティング戦略をとるべきかといった分析が述べられている。定価は2000円だが,それをはるかにうわまわるベネフィットは保証付。実利主義者の価値観を理解しないで実利主義者向けの商品を市場に浸透させることはできず,多くのベンチャー企業はそのキャズムを乗り越えられないがために倒産してしまうという多くの事例を裏付ける理論だ。メインストリームの市場の消費者は,不連続なイノベーションを受け入れないという指摘が鋭い。パソコンはタイプライタからワープロの時代をへた上で現在に至るが,GUIになってもさほど違和感なく消費者に浸透していったのは,操作に連続性があったからだとも考えられる。そもそも初期のインベーダーゲームの時代から操作方法に大きな違いがでてきている訳ではない。一定の実用性を確保したあとは「ホールプロダクト」(一種の商品セットやサービスなど)が重要となり,マイクロソフトが一定のシェアを現在確保しているのは,キャズムをさっさとのりこえて,ホールプロダクトの構築ができたことが成功に至った理由ではないかとの仮説も構築できる。で,この本の内容はもちろんハイテク製品なのだが既存の企業で新製品を開発する場合にも応用できる部分がかなりある。自社の消費者が自社にいだいているイメージやこれまでの商品群との「ホールプロダクト」性などは,新商品開発にあたって十分考慮すべきことであろうし,アフターケアなども含めて他の商品やサービスとのシナジー効果なども考慮してメインストリームに切り込んでいくのが正しい経営戦略だということになる。「老舗」の「老舗」たる所以は,老舗ならではの主力商品を中心にホールプロダクトを構築して時代に適応することで,消費の連続性を保ちつつ,変化にも対応していくという姿勢がある点だろう。まだ読んでいない方にはぜひお勧めの実利満載のマーケティング本。いろいろな解説本もでているがまずは本家本元のこの本にいきなり挑戦してみるのが一番効率が高いと思われる。