2017年12月17日日曜日

これからの日本,これからの教育

著者:前川喜平 寺脇研 出版社:筑摩書房 発行年:2017年 本体価格:860円
なぜリベラル勢力は衰退したのか。いろいろ要因はあるが,日本の行政機構や自由民主党などがリベラルの政策を大幅に取り込んでしまったためではないだろうか。その証拠となるような内容がこの本には記述されている。50年前には,こうした内容の本を前文部科学省事務次官や審議官が出版するとは,誰も予想していなかっただろう。だが,時代は変わる。現在は新自由主義(限定的にいえば市場主義を大幅に持ち込み規制緩和をおこなうことでGDPを増やしていこうとする考え方)が優勢で,しかも個人よりも国家の考えを優先する国家主義の時代である。この本の著者はその新自由主義と新国家主義に対して,異論を述べる。その基本的理念は「学ぶ場所の保証」というキーワードに尽きる。
 
教育にも市場原理を持ち込むことは可能だが,もしそうした方向が強まると国の教育はどうなるかといった危機感が,各種の事例によって解き明かされる。その視線は朝鮮学校や児童養護施設を退所した人間の行く末にも及ぶ。考え方はいろいろあろうが(また文部科学省の官僚と現場の教員とでも考え方は大きく違うだろうが),21世紀に教育の場を確立するというお二人の意気込みを感じることができる内容である。特に巻末(242ページ以降)に掲載されている前川喜平氏の「公務員である前に」と題した文章は圧巻である。戦後の教育行政のメルクマールとなったことがらをわかりやすく解説してくれている。現在では当たり前となりつつある「生涯学習体系への移行」が1981年の臨時教育審議会に由来することを初めてこの本で知り,義務教育費国庫負担制度をなぜ文部科学省が堅持しようとしたのかも理解できる。

このお二人の考え方に異論をもつ人もいるだろう(自分自身もいわゆるゆとり教育についてはまだ懐疑的である)。ただ,新自由主義に効果があるかどうかは実は市場が証明してくれる。いわゆるK学園問題(獣医学部の新設問題)である。もし新自由主義が正しいのであれば,新たに設置の認可がおりたその大学には受験性が殺到し,一部の獣医不足の地域の需要も供給によって満たされ,日本の畜産はきわめて安定的な発展を遂げることになる。ただし,もしそうでないならば,やはり市場原理にゆだねるとした自由民主党の一部あるいは行政の一部に不適切な「忖度」があったことを,市場が証明することになる。「学び」の場は保証されるべきであるが,必要な規制は維持するというのがお二人の立場である。どちらが正しいのかを判断する材料は5~6年後にはすでに明らかになっていることだろう。今が旬のテーマであるが,この新書を一時の話題作にしてしまうのはおしい。教育行政を専攻されている学生はきっと学ぶところが多いだろうし,教科書会社や塾の教師など教育にたずさわるあらゆる人間にとって示唆に富む内容だ。

2017年12月14日木曜日

「ヒトの本性 なぜ殺し,なぜ助け合うのか」


著者:川合 伸幸 出版社:講談社 発行年:2015年 本体価格:760円
 人間(ヒト)も生物なので,その宿命から逃れることができない。経済学は合理的な人間を想定しているが,何万年にも及ぶ進化の歴史のなかで培われた特性は,なまじっかな情報通信科学の発達では変化することはないのだ。
 その意味では,今もなお続く人間の非合理的な行動の一部を,この新書は説明してくれる。「なんとなく良くない感じ」を人間は頼りに生きているという指摘はある意味,「救い」でもあり,倫理学や哲学の造詣がない一般人でも「倫理的に生きる」ことを示唆してくれている。

 で,一番面白いのが「第3章 性と攻撃性~男性の暴力,女性の仲間はずれ」。男性と男性が敵対した場合には,直接的に対決,場合によっては女性と女性が敵対したさいには暴力に結び付くケースは少ない。心理学者の植木理恵さんは,女性と女性の対立を評して「ガールズ・ウォー」と表現した(女性が女性と敵対した場合には直接的な対決ではなく,相手方の関係性を攻撃する。たとえばAちゃんと親しくしているBちゃんやC君に対してAちゃんと仲良くしちゃだめだよ…といった攻撃が関係性の攻撃である)。ま,確かに実際そういう傾向はあるのだが,その裏付けとなる論理がこの第3章で紹介されている。
 87ページに記述されている内容だが,進化論的に女性は「繁殖」を成功させるためには暴力による直接的な対決を避けるのが合理的となる。その結果,「間接的な攻撃」として「仲間外れ」が多くなるというわけだ。88ページの実証研究では,「女性のほうが男性よりも,自分の友人が新たな友人関係を築くことに嫉妬しやすい」とされており,特に女性が「仲間はずれ」など攻撃性を発揮しやすいのは「資源を取り合う状況」にあるときだという(資源は男性であることもあればお金などのこともある)。で,興味深いのはこれは人間だけなくチンパンジーもそうなのだという。これもまた進化の歴史で説明できるというが,人間はやはり「生物」なのだな,と実感する。

 では人間はいがみあい,闘争ばかりするだけの生物なのだろうか…というとラストで著者は「そうでもない」と希望に満ちた結論を示す。もしろん人間はもともと攻撃的で暴力的だ,という言説もあるのだが,「むしろ人間は(無償で)助け合う本能がある」という説が有力であることが紹介されている。これもまた進化の歴史の流れで説明されている(極端に利己的で闘争的な個体は進化の歴史のなかで集団から排除されてしまうため)。そして社会の維持に必要なのは「互恵性」という重要な指摘がなされる。もちろんこれらはまだ数値などで客観的に確定した「事実」ではないのだろう。今も世界中で戦争や闘争,紛争,仲間はずれに暴力は絶えない。しかし,おそらくは「なんとなく」人間は暴力が嫌いで「互恵性」を大事にする生物である気がする。この「なんとなく」という感じ,おそらく生物学にさほど詳しくなくても,生物としてのヒトが生き延びていくのに大事で重要な感覚ではないかと思う。

2017年12月9日土曜日

「Red」

著者:島本理生 出版社:中央公論新社 発行年:2017年(文庫本) 本体価格:780円(文庫本)
 夫の両親と同居する「村主塔子」(31歳)。2歳の子供を抱えた専業主婦で,旦那(村主真)は,有名企業勤務。第三者からみれば問題は何もない。義理の両親との同居を除けば,そこそこ幸せな家庭のはずだった。しかし,友人の結婚式で10年前に交際していた「鞍田」と再会してから,既定の路線からはずれた人生に目覚め始める…。
 日活の「団地妻」的ストーリーとイプセンの「人形の家」を現代風にあらためてなぞりつつ,21世紀の日本に救う「家」と「世間」のしがらみを浮かび上がらせる。20代前半から10年後という設定で,ちょうど世間のしがらみが厳しくなる世代でもある(主人公の年齢が40代であれば,おそらく文芸小説にはならない。なぜなら子供にかける手間もそれほどないうえ,恋にこがれていったこともない。純粋に倦怠期をむかえた夫婦の話にしかならないからだ)。同時に30代前半であれば,またさまざまな選択肢が残されている。ちょうど「塔子」はその選択肢のなかからどれを選ぶべきか…といったポジションに置かれる。この小説にはキリスト教的な意味合いでの神罰やら仏罰は存在していない。「塔子」も不倫相手の「鞍田」も,そして旦那の「真」も,初期条件を与えられた後は自律した「原子」のように動き回る。文庫本239ページの鞍田のセリフが印象的だ。
「俺は外的な罰は当たらないと思ってる。そこに因果関係はない」
「もし罰があたるようなことがあれば,それは見えないものじゃなくて,君(塔子)が,君自身に当てるだけだよ」
 当然のことながら宗教的な制約を受けず,物語のなかに設定されている「制約条件」を浮き彫りにしていくと,21世紀の日本の「世間」とそして「経済的な制約条件」の2つが重要なカギをしめてくる仕掛けになっている。恋愛小説なのに会社勤めの話や正社員と契約社員の働きぶりや評価の違いなどが続出するのは,21世紀の日本の「世間」の多くは「会社」で,経済的な制約条件が主人公を含めた登場人物の行動に大きな影響を与えるためだ。過激な性描写は,あまり主人公の生きざまには関係してこない(もっともそれがこの小説の売り,ということになっているようではあるけれど)。
 
 中世ではないので,家事も自分ででてきて,働くこともできる女性の多くが,家庭に不満をもてば,選ぶ選択肢は決定されてくる。さらに,世間のほとんどが「会社」であるならば,(一定の能力さえあれば)「世間」は変更可能だ。抑圧された女性がとった道は,それなりに険しいものであったことはさりげない描写で巻末に描かれているが,この本のメッセージを凝縮するとすれば,「思っているほど世間も経済的制約もたいしたことがなく,すべての個人は自立するべきだ」ということになろうか。なお,タイトルの「Red」は「塔子」と「鞍田」がとある場所であったときのとあることに由来している(文庫本272ページ)。人間の本性は世間の常識とは違うのだよ…という現実を微細に覗き込む著者の「感性」を感じるタイトルだ(このあたりが普通の恋愛小説とは異なる部分なのだろう)。
(追記)不倫小説ではあるものの,実は「ルパン3世 カリオストロの城」と同じ物語の構図をとっている。クラリスは男爵に物理的に「塔」のなかに幽閉されているが,ルパン3世によって解放され,最後,ルパン3世はクラリスの「心」だけを盗んでどこかしらへ去っていく。「村主塔子」は精神的に「家庭」に幽閉されているが,「鞍田」と再会することで新たな自分の人生を見出し,しかし「鞍田」とは結婚せずに暮らしていく(つまり心と思い出だけを共有している)。くしくも「村主」の名前には「塔」の文字も入っている。
 もしこの小説を純愛路線で描写したならば…おそらく「カリオストロの城」の現代版ということになり,しかも冒険活劇の要素はないわけだから,面白くもなんともない小説になっていたことだろう。過激な性描写はやはり必要不可欠な要素だったのだ。

2017年12月4日月曜日

「吉祥寺探偵物語 消えた少女」

著者:五十嵐貴久 出版社:双葉社 発行年:2014年3月 本体価格:630円
 「宝物探し」が「物語」の基本モチーフだとすれば,この本の「宝物」は,「細い肩,長い黒髪,頼りなげなその表情」が印象的な「柳沼純菜」(32歳)の一人娘だ。宝物探しに挑むのは身長175センチ,38歳のコンビニエンスストアのアルバイト店員「川庄」(元は銀行員)。つい3年前に離婚歴があり,妻の「由子」が若いスタッフとできて離婚を突きつけられたという「傷」を持つ。物語の主人公には必ず「傷」があるが,この本では主人公の経歴や離婚歴が「傷」となっている。
 実は「犯人捜し」はさほど難しい本ではない。最初の数十ページでおおよその推定はきく。また「少女」(=宝物)の所在も,薄々検討がつく。にもかかわらず最後まで読んでしまうのは,やはりこの主人公の「傷」がラストでどのように癒されるのかがどうしても知りたいから,に尽きる。けっして頭が悪いわけでもなく(むしろ観察眼は鋭い),さらに人間的魅力に乏しいわけでもない。倫理観や責任感もあり,社会的には「底辺」とみなされる職業状態であっても,けっして人間の尊厳を失っているわけではない(事実,通いつけのバーには主人公のファンもいて”捜査”に協力もしてくれるのだ)。で,最後に主人公は「一定の救済」が与えられるわけではあるが…。
 この吉祥寺探偵物語はその後シリーズ化されている。推理小説としてのプロットが弱いのにファンがついたのは,主人公の「傷」が普遍性を持つからだろう。結婚に失敗した人・銀行など会社を30代で辞めざるをえなくなった人・いろいろな思いで30代をアルバイトで過ごしている人・経済的に困窮している人…世の中にはさまざまな傷を負っている人が多々いるわけだが,社会的あるいは心に傷を負っていても倫理観や社会的な責任感まで放棄している人はまれだ。そうした人たちの夢と希望をこの小説の主人公は,仮想現実の世界で「現実化」してくれている。事件そのものは「救い」がないが,最後まで「自己の倫理哲学」を通した主人公がささやかな幸せを手に入れた瞬間に,読者もまた解放感と喜びを味わう。けっして身体的に優れているわけでもなく,社会的地位が高いわけでもない徒手空拳の「傷を持つヒーロー」。近代まれにみるデフレーションの時代にこそ登場するべきして登場してきたヒーローといえる。