2018年1月8日月曜日

未必のマクベス

著者:早瀬耕 出版社:早川書房 発行年:2017年 本体価格:1,000円
 「ヒーロー」が登場する物語では,「ヒーロー」が帰還するのが原則だ。なぜなら帰還しなければその英雄譚を周囲の人間に伝えることができない。映画「ロード・オブ・ザ・リング」の最終も副題は「王の帰還」だった。しかしこの小説では最初から「帰還」が想定されていない。下敷にされている物語が「マクベス」ということもある。主人公の運命は最初から宣言されているわけだが,それでも「面白い」のは,古典的な神話の体系を「マクベス」のさらにその下に置いているからだろう。「マクベス」の下にある「物語」とはホメロスの「オデュッセウス」。トロイア戦争に参加した後に諸国を旅してさまよい,その間王妃ペネロペは貞節を守りながら帰還を待つ。求婚者が多数現れるが,オデュッセウスにしか扱えない弓をひいて的を射貫いた者がペネロペと結婚できる。オデュッセウスは放浪者としてペネロペの前に現れ,見事その弓で的を射貫く…(この小説ではオデュッセウスの弓矢に相当するのが積木カレンダになる)。
 主人公の「中井」は38歳のビジネスパーソンで独身。2歳年上の彼女はいるが,どうということはない経歴で,「英雄」としての片鱗が,冒頭ではまったくみえない。それがカジノの「大小」(ダイシウ)でたまたま稼いだ400万円程度を,未公開株式の購入にあてたことから物語に巻き込まれていく。物語なのでさまざまな「怪物」と出会い,最後は自ら設定したビジネスコードと「目的」にしたがっていくのだが,この小説が泣けるのは,主人公が自ら設定したビジネスコードと「目的」に頑なにこだわりつづけるからに他ならない(これがもし普通の優柔不断な男であれば,ここまでこの物語が話題になることもない)。「目的」のなかには「初恋」「ビジネスコード」「正義」「衡平」といった要素が巧みに配置され,多くの読者が共感できる仕組みも設置されている。そしてラストは「渋谷」のなんてことはないバーに場面が引き戻される。物語の始まりは「男性2人組」でラストは「女性2人組」のシーンになる。その瞬間,帰還するはずがない「王」が帰還したことが積木カレンダで暗示される。厳密にはもちろん「帰還」はしていない。ただ「0.999999…」が「1」とほぼ同じであるように,「帰還」したのも同然の終わり方だ。かくして現代の「悲劇」はきっちり様式美を保ったまま完結する。この小説は一度読んだあとにもう一度読んでも面白いはずだ。なぜなら「結末は秘密にしてください,なんていう話はつまらないに決まっている」(9ページ)からだ。