2013年3月29日金曜日

「面白い映画」と「つまらない映画」の見分け方(キネマ旬報社)

著者:沼田やすひろ 監修:金子満 発行年:2011年 本体価格:1,200円
 「ストーリー」(物語)を13の局面に分け、ストーリーの面白さを分析する。スタジオ・ジブリの映画やハリウッドの「オーストラリア」、日本の「アマルフィ」などが題材になっている。もともとウラジミール・プロップが昔話の構造として分析した結果をもとに、著者と監修者がストーリーの面白さをさらに緻密に分析。この本にその結果と分析例が掲載されている。
 最近みた映画で今ひとつだったなあ、と個人的に思っているのが、っ巨匠リドリー・スコット監督の「プロメテウス」。この本を読んでなんで「プロメテウス」がつまらなかったのかがわかる。
 「第1幕」に相当する背景・日常・事件・決意の部分は、地球のさまざまな遺跡に共通するある種のピクトグラフが発見され、そのピクトグラフをもとにはるか宇宙の彼方に考古学者が旅立つまでが相当する。「んなアホな」という第1幕は、リドリー・スコット監督のかつての名作「エイリアン」と対比すると、あきらかに必然性も物語の深みもかける。さらに「第2幕」の苦境・助け・成長・破滅・契機に相当する部分でも、主役の女性はぜんぜん破滅せず、苦境に陥るものの「エイリアン」のリプリーとは比べるべくもない。そして最後は「対決・排除・満足」となるが、「エイリアン」でリプリーがみせた緊迫のエイリアンとの対決と比べると「プロメテウス」は非常に冗長な感じ。キャストは良かったのに、映画そのものが「つまらない理由」を理詰めで考えることができる点では非常に面白い本。だが「つまらないけれどなぜか感動する映画」とか、「面白いけれどなんだかなあ」という映画もあり、私の場合には、前者はフェデリコ・フェリーニの映画が相当し、後者には「踊る大捜査線」が相当する。面白いかつまらないかという対立軸だけでみるならば、いいのだけれど映画はイメージだけで作成されてそれがそのまま魅力ある作品にもなりうるのがまた微妙。

2013年3月27日水曜日

臆病者のための裁判入門(文藝春秋)

著者:橘玲 出版社:文藝春秋 発行年:2012年 本体価格:780円
 「訴えてやる」というやりとりは日常のトラブルでもよく聞かれるセリフだが、実際の裁判は書類作成と証拠の準備、弁護士への相談料などコストと時間がかさむばかり。この本ではある損害保険会社の窓口担当員が単に事務処理の煩雑さのために、ある被保険者の交通事故を自損自弁したことに対する裁判が扱われている。とはいっても著者はあくまでその被保険者の補佐であり、あとは地方裁判所と簡易裁判所をたらいまわしにされたあげく、ついには東京高裁に控訴するに至る。経済的なメリットは著者にはまったくなく、また実際の原告となった当事者(被保険者)も得たものはわずかばかりの金額で、ほとんど実際には名誉毀損裁判のようなもの。そしてそのプロセスから垣間見えるのは福島原子力発電所の損害賠償をめぐる気が遠くなるような交渉と裁判の事務処理だ。
 もちろんすべての被害者がもれなく福島地方裁判所や観光被害などを被った現地の地方裁判所で裁判をおこない、しかるべき損害賠償をしてもらうのが理想的だが、証拠集めや口頭弁論など時間とコストが莫大なものとなる(原告にとっても被告にとっても)。原発ADRはそうした裁判手続きにまつわるコストを軽減化するものだが、ADRでも未処理の案件が積み上がっていく。福島原子力発電所事故の後始末は、むしろこれから本格化する可能性もあり、その社会的コストを積み上げていくと火力発電のコストなどは問題にならないほどの「原価高」になっている可能性がある。
 この本で扱われているような少額訴訟、意外に10年後はさらに増えているのかもしれない。

学び続ける力(講談社)

著者:池上彰 出版社:講談社 発行年:2013年 本体価格:720円
 「リベラル・アーツ」という言葉をこれまで誤解していた。ヨーロッパでうまれた概念で奴隷を「解放」して自由民にするための「学問」をリベラル・アーツということのようだ(これまで個人それぞれが自由に学習することをリベラル・アーツというものだと思い込んでいた)。アメリカの大学は学部4年間はいわゆる一般教養を学習して大学院で専門教育を受けるのが一般的だが、今の日本の大学は一部を除いて一般教養の課程はほぼ壊滅している。専門教育に1年生から入るのが良いのか、あるいは専門教育にほとんど関係ない一般教養を2年間やるのが良いのか、という議論はつきないが、個人的にはリベラル・アーツのメリットにやや軍配があがる。ひとつにはまず大学の専門教育はせいぜい頑張っても4年間。社会にでてから定年退職まで約40年間あるわけだから、学部の専攻に左右されて、自分が履修していないジャンルへのチャレンジ精神をそこなうデメリットは大きい。著者自身もNHKに経済学部を卒業してから入社し、刑法と刑事訴訟法を独学で勉強している。また会社の仕事の合間に英会話学校などにも通学して英語を勉強。それが今の池上彰さんの下地をつくっているわけだから、大学の専門教育よりも自ら進んで学習した一般教養のほうが影響が大きいともいえる。実際のところ文学部を卒業しても社会人になった段階で会計学や法学などの素養が求められることが多くなるし、情報処理技術は文学部でも論文作成時には必須のスキルとなる。仏文学でもバルザックなど手形法などを作品に用いている場合には、あらためて学習することも必要になるだろう。狭いジャンルで定型的な発想で研究や学習をするよりも、多角的に自分の学習領域を広げておいたほうが、結果的に自らの専門性を深めることもある。本書では106ページに展開されているキーワードをみつけて、キーワードをつなげていくノートの取り方なども紹介されており、興味深い。

2013年3月26日火曜日

投手論(PHP研究所)

著者:吉井理人 出版社:PHP研究所 発行年:2013年 本体価格:760円
 「真っ向勝負」の古いタイプの投手…かつて近鉄バッファローズからヤクルトスワローズに移籍したころの吉井投手にはそんなイメージがあった。また理詰めで勝負する野村克也監督とうまくいくのだろうか、という不安もヤクルトファンとしてはあった。水と油のようにも思えたのだが意外にも吉井投手と野村監督とは相通じるものがあったらしい。野村監督も南海ホークスの監督を解任されてからロッテ、西武と渡り歩いた苦労人だが、吉井投手も抑え投手としては一流だったのに近鉄から放出されたのに等しい。ただし、この本を読む限り、単に「苦労人」というだけでなく、力勝負の吉井投手に頭を使って勝負に勝つ方法を教えたのは野村監督のようだ。コンディショニング作りこそがコーチの役目と自己を規定して、独自のコーチ理論を積み上げていくスタイルは、力勝負の投手というよりもID野球の異端の申し子といえるかもしれない。配球をリズムでとらえる、右投げ左打ちのバッターと左投げ左打ちのバッターとでも打ち方が異なってくる、瞬間瞬間の積み重ねや日常の些細なことがらを大事にする…といった考え方はまさしくプロフェッショナル。実際の生活に応用できる考え方も少なくない。野球選手の著書は日々勝負に打ち勝ってきた人間の言葉で構成されているだけに、人間対人間のアナログな場面や自分自身と対峙してなんらかの目標を達成しようとするさいに有益な部分が多い。大雑把ともみえた現役時代の著者の「外見」とはうらはらに緻密で、しかも繊細な投手の投球理論を学ぶことができる。

2013年3月20日水曜日

計画と無計画のあいだ(河出書房新社)

著者;三島邦弘 出版社:河出書房新社 発行年:2011年 本体価格:1,500円
 このご時世に新しく出版社を立ち上げた著者の奮闘ぶりと書籍に対する思い入れが語られる。キャッシュ・フロー計算書や事業計画書も作成しないで、「思い入れ」だけで直球勝負の出版社経営。しかもその経営理念に共感した従業員が7名集結して、今に至るまで経営が持続しているというすごさ。8万点以上の新刊が1年に書店に流れ込むが、発刊点数が極めて少ないのも常識破りだし、取次を通さないで書店との直接取引を重視するのも異例(ディスカヴァー社などないわけではないが…)。「原点回帰の出版社」ということで、マーケティングや市場効率性などが業務を分断し、「思い」が欠落していくデメリットも指摘。極端な原価計算と市場調査が「計画」、まったく何も考えないでいきあたりばったりに出版していくのが「無計画」とすると、ちょうどこの著者の出版社ミシマ社はその中間にあるといえる(マーケティングを重視はしないが、かといって何も考えずに編集や営業をしているわけではない)。それがタイトルに反映されているが、このご時世に紙の印刷物に思いを託していこうとする若きクリエーターには、おそらく「忘れちゃいけないもの」を著述している本として有益だろう。そして書類の山とゲラの山とに格闘している中堅のクリエーターには「忘れていたもの」を思い出すきっかけになるのではないか。「場」を作っていこうとする型破りな経営者の「思い」が綴られているが、この理念の後継者はなかなか現れないだろうし、まねっこしようとしても真似できる人間はそう簡単にはいない。したがってこのミシマ社ははからずも市場での「差別化」に成功しているともいえる。途中フリーライターに路線変更した従業員もいたようだが、それでもなお多くの従業員がその場で働いているのだから、企業としても「現時点」では成功しているといえるのではないか。それにしてもわずか7年間の編集経験で出版社を設立して、独自の「思い」で取次やら書店やらと交渉して販路も獲得していく手腕はすごい。

銃・病原菌・鉄 下巻(草思社)

著者:ジャレド・ダイアモンド 翻訳:倉骨彰 出版社:草思社 発行年:2012年(文庫本) 本体価格:900円(文庫本)
 上巻は単行本で2007年だか2008年に読み、下巻は時間が経過してようやく文庫本で読み終わる。単行本がでたのが2000年だからベストセラーとなってから約13年後に読み終えたわけだが、内容はなるほど世界中でベストセラーになるだけのことはある。
 唯物史観的な発想だと、原始共産制から封建制度、資本主義と進化論的に歴史が動いていくことになる。そうした考え方では北米のように高度資本主義社会が発達している地域もあれば、ニューギニア高地のように原始生活とさしてかわらない地域もあったとき、人種の優劣の差が社会の発達の差に反映された…という考え方ができなくもない。著者はそうした歴史の「流れ」を排除し、地理的要因や自然環境などから、技術の伝播や農産物の適性などを分析して、社会のあり方を考察していく。そして、これまでの歴史書では地理的要因というのはあまり表にはでてこない分析手法で、一般人にこの本が与えたインパクトは極めて大きい。著者は理系出身の学者だが、理系や文系を問わない歴史像というのは、こうして編まれるべきものなのかと感心。翻訳も読みやすい。

目からウロコの世界史物語(集英社)

著者:清水義範 出版社:集英社 発行年:2010年 本体価格:686円
 ギリシア時代のソクラテス、マケドニアのアレキサンダー、ポエニ戦争、イエス・キリスト、中国史、ムハンマド、セルジュク・トルコとウルバヌス2世、十字軍とサラディン、ホラズム・シャー王国とモンゴル、メフメト2世によるコンスタンティノープルの陥落、中南米の歴史、グラナダ陥落とコロンブス、狂女ファナとカルロス1世、ムガール帝国、ハプスブルグ家とオランダ、エンリケ王子から産業革命まで、、ケマル・アタルチュク、ガンディーと、なんと世界史数千年をA6判の文庫本451ページにまとめてしまった本。しかも面白い上に解説は斎藤孝という豪華な造り。ややイスラムの世界史の解説にページがとられ、中国の歴史は簡略化されているが、やはり著者はイスラム文化に興味がひかれているようだ。最近の高等学校の世界史の教科書も中南米の歴史や、イスラム文化などについて取り扱いの比重を高めつつあるが、そのデメリットとしてますます世界史のさまざまな事項が、知識偏重になっている印象を受ける(というよりも限られたページ数で、扱う項目が増加すれば、年号と事象の羅列になるのは避けられない)。で、扱わないよりはむしろイスラム文化も中南米の歴史も掲載しておいたほうが、後日、イスラムとヨーロッパをめぐる近現代の事象を解読するさいにも有用という面もある。知識と知識の流れを掴むのには結局それぞれ個人が一般書籍で理解を深めていくより方法はないが、そもそも歴史的知識がなければ流れすらつかめないのだから、やはり知らないよりは知っておいたほうがよい。で、この本は「流れ」を掴むのに非常に適している。もちろん幾分かは遊び心も入っているので、厳密な歴史書というわけではない。ただ、教科書とは異なる大づかみの歴史を知ることができるという意味では出色だ。
 近現代史を重視すべき、という意見もあるが、個人的にはその立場には与しない。イスラム教が生まれてきた流れや、イスラム教とキリスト教が対立するようになった所以などは近現代史のさらにその前提となることがらだ。考古学までさかのぼらなくても、少なくとも有史の一定の知識があって、現在の日本や国際情勢を深く理解できるものだと思う。中国の歴史を振り返れば、中国の最近の覇権主義についても理解が深まるし、フランク王国からローマ帝国の歴史をみればEUがそうそう簡単には全面的に解体することもないことがわかる。そしてパレスチナ問題も含めてイスラム教徒とキリスト教徒の相互理解は、個人レベルでは一定程度達成できてもある一定の組織どうしとなれば今後100年や200年では和解などは成立しえないことも。あ、アラブ民族とトルコ民族が違うっていうこともこの本で理解できるので、そうした理解をもってほかの歴史の書籍にあたればより歴史に興味がもてるようになるとも感じる。

2013年3月18日月曜日

発火点(文藝春秋)

著者:桐野夏生 出版社:文藝春秋 発行年:2012年 本体価格:552円
 「戦う美形の小説家」桐野夏生の対談集。対談の相手も非常に手ごわい顔ぶればかりで松浦理英子、皆川博子、林真理子、小池真理子、柳美里、坂東眞砂子、西川美和といった作家が中心で、たまにまぎれこんでいる重松清、佐藤優、原武史といった人たちが可愛くみえる。なんかこう桐野夏生の小説を読んでいると、ドロドロの世界を髪の毛をつかまれてひきずりまされているような居心地の悪さを感じることが多いのだが、「読んですっきり快適」といった小説は後に何も残らない。後味が悪いくらいでちょうどよいのかもしれない。
 タイトルが「発火点」とあるように極めて友好的に会話が進んでいるケースもあれば、佐藤優氏との対談のように桐野夏生が意地悪く「でも逮捕されちゃったんですよね」と切り込んでいく対談もある。摩擦が生じてそこから炎がたちあがるという意味では、稀代の読書家佐藤優氏との対談が個人的には非常に興味深いものがあった。
 「ふふふ…逆に破壊してしまうかもしれない」と話す桐野夏生、やっぱり実際にあったら怖いよなあ…。その一方で「情けない男は好きです」と言い切る義侠心みたいなものまで散見できて面白い。

2013年3月4日月曜日

働かないアリに意義がある(メディアファクトリー)

著者:長谷川英祐 出版社:メディアファクトリー 発行年:2010年 本体価格:740円
 自分自身が農学部出身ということもあり、農業生物学的な書籍には親近感をいだく。「アリ」(というかハチなども含めて特殊な集団構成をもつ真社会性生物)をテーマにして、素人の読者にもわかりやすく解説してくれたのがこの本。真社会性生物のさまざまな特性と、「まだわかっていない領域」についてコンパクトに語られている。ビジネス書籍としてこの本が紹介されていることもあったが、個人的にはリドリー・スコット監督の「エイリアン」を連想しながらこの本を読んだ。
 アリやハチの世界は女系世界で、「エイリアン」の世界も明らかに女系世界。エイリアンのほとんどはいわゆる「ワーカー」(働きバチ)で、大半は寄生可能な生物が「卵」によってくるまで「休眠」している状態だ。アリの情報伝達は接触刺激か「反応」になるが、エイリアンの場合、相互の情報伝達は事前に遺伝子にプログラムされたなんらかの「意図」がありそうだ…。アリやハチの集団社会と人間の集団社会とを比較しても確かに面白いかもしれないが、情報伝達や人間の場合、必ずしも「遺伝子を長期的に残す」というのが集団目標にはなっていないこともある。だから映画などと連想しつつ、この本を読むと意外にさらに面白いのかも。
 ムシの世界にも公共物への「フリーライダー」(ただ乗り)があるというのははじめて知った。ほかの虫などにまぎれこんで自分の遺伝子を残そうとする種のことだが、公共物のフリー・ライダーは近代経済学でもテーマになる問題(人間の社会では取引という概念を持ち込んでフリー・ライダー問題を解決する方法などがある)である。アリやらハチやらでもフリー・ライダーが存在するというのは「群」(あるいは社会)が存在するうえで不可避の問題なのかもしれない。