2007年11月23日金曜日

国際金融の現場

著者名;榊原英資 発行年(西暦);1997 出版社;PHP研究所  
 国際金融がタイのバーツ通貨危機でゆれていた頃の秘話ともいえるかもしれない。タイの通貨危機が次第に日本や中国にも波及しそうになり、緊急経済対策がおこなわれると同時にアメリカやヨーロッパも対応を迫られるという国際金融時代のふさわしい事件のまえぶれだった。当時はソロスなど個人的なところに原因が求められたりもしたが、榊原は金融のグローバル化は情報のグローバル化の一つとして位置づけ、資本主義が市場経済化を推し進めれば、こうした不安定性にまきこまれることは不可避であったとする。なんらの数値の裏づけもないわけだが、こうした「仮定」もあるという一つの「文化論を国際金融というテーマにそって展開していると思えば実に納得しやすい。
 当時の日本経済は改正外為法が施行。銀行や証券の自由化が提唱されつつもまた都市銀行が19あった時代で東京三菱銀行やUFJ銀行すら登場せず、しかも再びこの2つのメガバンクが合併する時代がくるとは到底予測しえなかった時代だ。そうした時代にすでに「情報開国」として日本が一方的に「単純なアメリカ観」を導入するだけでなく、多元的なアメリカ市場を客観的に認識しつつ、日本の現状も多元的に発信すべきとしているのはやはり「切れ者」といわれたこの人だからこそできたことだろう。
 また情報化についてバーチャライゼーションのリスクも指摘されている。情報化はある意味で仮想空間を構築できるほどの力をもっている。ゆがめれた情報が大量に発信されることで抽象的な議論が現実に、逆に聖書やコーランなどのようにマクロ経済学の教科書に忠実な原理主義の到来を予測しているとも考えられる。そこに榊原がもってくるのはフランシス・トクヤマの「信頼」という抽象的概念であり、文化的・歴史的過去を分析しないマクロ経済学を現実の市場に持ち込むことへのリスクを訴えている(と私は思った)。この「信頼」は「信用」という金融の言葉に転化され、金融ビッグバンと「信頼」という文化的で緻密な議論に展開するわけだが。
 文化というものはだいたいがローカルなものであり、そうした中で情報や金融制度が均質化していくことへの警鐘もあると思う。アジアとしてのネットワークの形成や改革ということを重視して現実に存在する「良い部分」まで破壊することをなるべくなくそうという趣旨にもみえる。そうした意味では確かに筆者は「新保守主義」なのだが、明治時代以後に飛躍的な経済成長を遂げた日本が「鎖国」の中ですでに「勤勉な蓄積」をつみあげていたことを無理に排除すべきではない。おそらくは一部の「過激な愛国者」のいうように自虐的な歴史は考え物で(とはいっても自己礼賛も危険なことはいうまでもない)、できうるかぎり原状を的確に把握する努力は放棄すべきではない。その上で戦略的な行動の一番有利なものは情報であり、そして自らの強さを正当に評価して戦略的に物事を考えるという思考方法をとるべきと筆者は提唱しているように個人的には思える。国際金融は別に競争の場所とは限らないが、少なくともあまりに不安定な通貨の動きは国内経済にも深刻な影響を与える。単純な通貨予測とか経済分析とかいうことではなく歴史的あるいは文化的な分析も含めて国際金融を論じて、さらに今後100年のアジアをみすえている筆者の壮大なビジョンは偏狭なナショナリズムを越えた「インターナショナリスティック(?)な金融論」ではないかとすら思える。

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