2007年11月23日金曜日

「欲望」と資本主義  

著者名;佐伯啓思  発行年(西暦);1993 出版社;講談社現代新書
 社会主義と資本主義を比較して社会主義にかけていた「消費者」という概念を重視する。そして消費者の欲望を察知するマーケティングがいかに資本主義では重要になったかを明らかにしていくわけだが、この場合のマーケティングが所与の「欲望」というよりも場合によってははじめからは存在していなかったはずの「欲望」まで創造してしまうことすら指摘されている。社会主義にはそうした消費者に関する概念や情報がない上に「労働者」の動機付けももたせにくいというシステムがあったわけだが…。中世末期からの地中海貿易、14~15世紀のドゥカート金貨をシンボルとするベネチア共和国の繁栄、そして16世紀以降に資本主義の世界システムが構築されかかるという通説の歴史を外部への欲望の拡張として筆者はとらえる。そして16世紀~18世紀に始まるヨーロッパの消費生活の拡大と生活様式の変化(イギリスの海外製品への需要拡大)の影にはジョン・ロックが指摘する「虚栄心」がある。流行は貴族やジェントリが先取りしてそれをスノッブである新興ジェントリが真似してさらに多少裕福な市民階級へのトリクルダウン方式で社会に拡大する。これもまた欲望の拡大と浸透だろう。そして1720年以後の産業革命の到来。この時期の商業活動は地理的条件や消費者の差異を発見してそこに新たな需要(欲望)を発見してさらに利益をあげる。こうした欲望の拡大に貢献したのが資金〈銀〉であるが、ゾンバルトの「資本主義の精神の中には得体の知れない劣等感、怨念、ルサンチマンのようなものがひそむ」という性質も筆者は指摘する。(ルアンチマンはニーチェに依拠する。貴族的生活などへの小市民がいだくうらみつらみといったものか。ニーチェはそうした市民の生活にルダンチマンを見出した)。おそらくゾンバルトのこうした指摘するドロドロの部分も筆者の用いる「欲望」という言葉の中に内包されるのだろう。こうした欲望のフロンティアは19世紀まで外にむかってかぎりなく膨張していく。そして20世紀資本主義が幕をあけて、アメリカ資本主義がイメージとしての資本主義をうちたてていく。20世紀の資本主義とはつまり、大衆消費者というフロンティアだと筆者は指摘し、そのシンボルが自動車であるともした。そしてここに19世紀資本主義の精神であるプロテスタンティズムとは異なる意識~人生を神から与えられた試練の時間としてとらえるのではなく~せつな的な快楽主義(コンサマトリズム)だった。そしてここにフランク・ナイトが指摘するようなゲーム性のある市場「公正なルールの下でおこなわれたゲームの結果についてはだれも文句はいえない。公正な市場経済に要求される倫理はただひとつ、もしゲームに敗れても泣き言はいわず静かにさっていくことだけ」という完全市場主義的な倫理の世界がくる。アメリカではこうした市場主義の理念と移民によって触発されたデモクラシーの理念とが一体となる。デザインもまた無駄を排した合理的なモダニズムなデザインの商品が登場して欲望を刺激する。そうした商品イメージは大衆の欲望を刺激する。資本主義は人間の欲望をエネルギーとして、人々は相互の視線を感じつつ強迫観念や不安感を欲望に転化する回路を作り出していくというわけだ。モノによってしか自分をアイデンティファイできない社会と筆者は総括する。そして最後は自分自身を欲望の対象とする自己愛的な欲望の時代になる。消費者のナルシズムを刺激する商品こそが最大の売上をあげる商品ということになるわけだが、そこで情報化社会を考えてみるとこれは資本主義を最大限におしあげる自己愛的な商品装置ということになるのかもしれない。近世から産業革命にいたる時期が異文化や外国に対する好奇心が欲望をたきつけたとすると21世紀はナルシズムの時代からさらに情報によって自己の内面のフロンティアをさらに拡大していこうという資本主義かもしれないという連想がわく。技術的な制約と欲望のフロンティアの乖離を筆者はしてきするわけだが、その判断はちょっと早すぎたのかもしれない。1995年以後、新たなフロンティアが目の前に出現したと思われる。それはおそらくアナログのこの世界をデジタルで再生したいという人類創世記の言い伝え、物語の普遍的な保存という神にもにた行為への「欲望」ではないか。

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