2007年12月23日日曜日

冒険としての社会科学

著者名;橋爪大三郎  発行年(西暦);1989 出版社;毎日新聞社
 まだソビエト連邦でペレストロイカが進行中のときの書籍である。よって中国やソ連についての著述もでてくるが、世代論を読み解く上で、欠かせない書籍であると同時に1960年代、70年代当時の「若者」が何について悩んでいたのかを知るにもいいテキストだ。戦後当時の戦後知識人とよばれる世代についても理解が深まる。いわゆる安保世代にも2種類ぐらいはある、と考えていたが、1960年代の20代(現在の60年代)がわりと組織的なマルクス主義者もしくは確信犯であったのに対して1970年代は孤独の陰がつきまとう。そしてそれは敗北と再生の時間であったのかもしれない。その後1980年代(現在の30代、40代)はシラケ世代とよばれるが、ある種、その当時は1960年代からの「バカ騒ぎ」がなんら生産的ではなかったことを見抜いていた世代でもある。まさか先人が内ゲバやら闘争とやらで敗北した歴史をみているのに、その真似をする必要性はないだろう。そして現在、情報化社会の製造業者の多くはシラケ世代の技術者が支えている。
 結局のところ、前の世代が残した遺産をうまく活用したのは現在の30代、40代ということになるが、前の世代が残したバブルという不良債権に苦しまされたのも、その後の世代だ。
 大企業や金融機関がこれだけのたうちまわっているその根源は、50代以上の遺産だが、それについてはあまり反省がなく、退職給付や税金をくいつぶしている世代でもある。ある種、10代が夢がもちにくいのは、そうした負の遺産が大きすぎるのかもしれない。ニートという世代あるいは生き方は暗黙の「闘争」もしくは、最大の「逃走」論かもしれない。

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