2007年12月24日月曜日

情熱の殺人

著者名;コリン・ウィルソン 発行年(西暦);2000 出版社;青弓社
 とにかく翻訳がひどい本だ。コリン・ウィルソンの明晰な論理展開がむちゃくちゃ。さて、殺人の下には多くの秘密がかくされているという趣旨で書かれたこの本は、いくばくかの推理があるものの歴史上の殺人事件について独特の考察をとげている。
 地理的な要因や気候的な要因まで考慮にいれているのが面白い。16世紀のエリザベス朝の人々は特に「情熱の殺人」に熱狂したという。「オセロ」のその分類に属する。エリザベス女王の愛人といえばロバート・ダッドレーだが、この妻の死因にも不可解な面がある。もう一つエリザベス朝では、ロンドン塔でトマス・オバーベリー卿が殺害された事件があある。エリザベス1世のあとをついだジェームズ1世は同性愛でロバート・カーという小説家が愛人だった。ジェームズ1世はカーの結婚話がもちあがるとオバーベリーをロンドン塔に幽閉。その後毒殺される‥。この時代、密通・毒薬・同性愛というのも殺害にからみちょっとした人間模様だ。清教徒的なイギリスでは公然と不倫はご法度だったが、フランスはそうでもないようだ。ルイ14世のころは不倫は日常茶飯事だったという。ただし黒魔術にからんだ殺人事件についてはルイ14世もびっくりして記録を歴史から削除しようとしたが、裁判所の書記官が残した議事録が残っていたという。
 古代ギリシアでは真理とは一定の儀式のもとで明らかになる。真偽を定めるのは人間の定めた法律(ノモス)ではなくゼウスの怒りだったのだ。しかしギリシアにはゼウスではなく論理つまりロゴスで真理と真理を比較しようという流れがでてき、ポリスの改革とともに裁判制度が整備されていく。この時期に多数決の原理が確立され、ソフィスト(プロタゴラスが有名)が活躍し、真理を判断するのは個々の人間であり、絶対的な真理は存在しないという主張がでてくる。これがギリシアの真理の一つの定義だ。これにたいしてプラトンは「法律」において、神の裁きを重視する旨を説いている。こうしたロゴス重視のシステムが確立されると、中世では真理を保証するのは神の言葉とそれを伝達する聖職者がにぎることになる。ミッシャル・フーコーは西洋に於ける裁判のモデルとして古代の「尺度」、中世の「糾問」、近代の「試験」をあげている。中世の拷問では、破門と拷問の体系のもとに犯罪者から真理を引き出す独特のシステムが発達する。近代から、この拷問システムが「調教と試験のシステム」へ変化していく。このあたりはフーコーの「監獄の歴史」に詳しい。近代の陪審システムは宗教的な威信の低下とともに歴史上うまれてきたともいえる。陪審制度はいわば国民が真理の判別機能を果たすシステムともいえる。司法の専門家ではない素人の陪審員に真理の判断をゆだねる根拠は社会契約説にあるといわれる。王権神授説に対抗した社会契約説は、王が現在権力を有しているのは、原始時代に社会の構成員が自己権利を委譲する契約を締結したからだ、というのが論拠となる。近代市民革命の「抵抗権」という考え方もこの社会契約説に原初がある。もし犯罪をさばくのであれば、社会を構成する市民そのものという発想だ。当然陪審員制度が一番よいということになる。このとき陪審員制度の到達する真理は絶対的な真理ではなく、社会のその時代の平均的な思考が妥当とする相対的な真実ということになる。陪審員制度が市民社会をキョウゴに構築する機能を有していることも念頭においておく必要性はあるだろう。「社会の無意識」というのはきわめて怖い存在ではある。しかし絶対的な真実に到達できない以上は、日本もまた社会契約説にのとった陪審員制度を導入することになる。「情熱の殺人」とは、必ずしも、恋愛や不倫のみに限定されるわけでもない。

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