2007年12月24日月曜日

天下無双の建築学入門

著者名;藤森照信 発行年(西暦);2001 出版社;筑摩書房
 東京大学生産技術研究所の教授、というよりも南伸坊氏や赤瀬川源平氏らとの路上観察学会での活躍のほうが有名なのかもしれない。縄文時代には、磨製石器というやややわらかめの道具が用いられていたが、実際につかってみると栗などの広葉樹の硬い木の方がきりやすかったという。弥生時代になると鉄器が稲作とともに入ってくるのでやわらかめの杉・檜を加工するようになってくる。現在のボルトではなく「しばる技術」の再検討。弥生時代特有の「竹」という素材。基礎と土台の区別(基礎の上に土台がたつというのが建築学では正しい)。そこから始まる歴史的考察だ。縄文時代には「基礎」という概念がなく、柱を土の上に直接たてていた。腐りやすいのが欠点だが栗の木は丈夫で1万年たっても腐らない。飛鳥時代から日本では礎石と檜の組み合わせが多くなり、現代では栗の木は九州南部と東北地方などだそうだ。江戸時代中期に「土台」が始まり、礎石、土台、そして柱という現代建築の基礎ができあがる。ただし古代の柱にはやはりなにかしらの神秘性があったようだ。出雲大社の発掘現場で著者は地表から2メートル下の発掘場所に、帯金でしばられたと思しき丸太だ。もともと出雲大社については古代、その高さが96メートルとも48メートルともいわれていた。しかし48メートルの高さを維持するには、木を東大寺のように寄木にしなくてはならない。その発掘物は古代出雲大社神殿の高さをある程度立証できるものであったわけだ。中央の柱は神様がおりてくるノリシロでその名残が「大黒柱」「床柱」といった言葉にあるのかもしれない」「茶柱」だってそうかもしれないが‥。また日本住宅にしめる階段の特異性についても著者は言及する。日本の住宅や建築の中で階段が重きを占めていたことはないそうだ。金閣寺や銀閣寺には一応二階はあるが、さしたる意味もなかったらしい。古代ローマではすでに階段が一般化していたが、ルネサンスからは室内空間にも取り入れられ、高い天井の玄関ホールが広がり、その正面に階段があるという構図となる。「風とともに去りぬ」のイメージか。その威光は開国したばかりの日本に伝わり、外にあっては塔、中にあっては階段という明治時代の威信装置となる。戦前に作られた博物館や西洋館にそうしたつくりが多いのは階段の歴史性にあるという。日本人はその歴史の中で水平性を重視する民族だったのかもしれない。
 建築学から歴史をみて、社会をみる。そうした試みに支えられたこの本はとにかく面白い。

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