著者名;斉藤孝 発行年(西暦);2004 出版社;新潮社
「ムカツク」という言葉は1980年代からティーンエイジャを中心に使われてきたようだから、おそらくその当時の10代は現在、30~40代。大分、日本語として定着してきたように思う。しかしながら、斉藤孝氏は、そうした言葉の裏にコミュニケーション拒絶と論理があるとし、「ムカツク」は卒業すべきものとしている。おそらくいは「ムカツク」という表現ですべてが拒否された結果、その先に広がる論理の拡大が求められないためであろう。
教育というよりもキャリアアップの要素には「能力拡充」という側面がある。何事もすりぬけていくだけでは、価値観が磨かれることはない。必然性がないのであれば発する言語ではないだろう。まとまった考えを練り上げていくプロセスに「ムカツク」「切れる」はタブーである。解決策として斉藤氏は「読書習慣」や「自己形成のモデルの発見」をあげる。「読書が大切なことは誰でも知っている。それでも現実は、読書離れが進んでいる。肝心なのは新年の強さである。なんとしても読書の習慣をつけさせるという不退転の構えが、現実を動かすのである」「自己形成のための教養作りは、読書が技となることによって、失われてきた内実を回復する」「ポストモダンはモダンを通り抜けて初めて意味をもつ」「世代を超えた共通のテキストを読む」‥とした上で、「思考の持続力と深い呼吸の2つの衰退がむかつくの温床」と結論をだされている。自分とじいれない価値観に対して、ただ感情を幼稚にまきちらすだけの人間に成長はないだろう。ある種他人に対して「閉じる」姿勢も確かにある時期は必要だが、そうした人間に対して社会が要求する水準も義務もないかわりに権利も認められにくい時代がいずれくる(権利の主張の前提に、義務の履行は当然ある。勤労・教育・納税は国民の三大義務だが、その義務を放棄する自由も当然あるとは個人的に考える。しかしその場合には社会保障や義務教育に頼ろうなどという甘い姿勢もたちきっておくべきであろう。誰しもがみな生活がらくなわけでもないし、毎日会社や学校にいくのを良いともおもってはいない。しかしそうした義務を果たした上で選挙権を行使し、義務教育の恩恵を受け、家庭という枠内で生存できる。それは基本ではある)。
ムカツク世界で生きるのは大変だ。しかし楽な時代なぞなかったし、今はむしろいかにして自分のいやなことと向かい合い、皮膚感覚を同時代と共有しながら個性を確立していくかがもとめられているのだともいえるだろう。
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