2007年12月17日月曜日

希望格差社会

著者名;山田昌弘   発行年(西暦);2005 出版社;筑摩書房
 今の日本の状況を「勝ち組」と「負け組」そして「不確実性」(リスク)という視点でとらえる。高度経済成長期の時代には受験を通じて職業の配分がおこなわれ、スピードの差異はあれど中流として失業リスクや家庭崩壊のリスクなどは最低限にとどめられてきた。1998年以後、ニューエコノミーの台頭により、一部の専門職業者と多数の単純労働者に対するニーズしか企業側がもたなくなり、その結果、パイプラインとしての学校制度は「報われるかどうかわからない努力を生徒に課す場所」として機能するようになったことを分析する。少なくともある程度の見通しがなければ人間は努力などできるものではなく、その結果、学習意欲が低下する結果となる。もちろんこうした現象は日本特有のものだけではないが、いたずらに過大な夢を与えて現実を教えない功罪というものもあるだろう。この1998年を境に失業率。自殺率、そしてクラミジア感染率などが上昇し、暴発タイプの犯罪が増加傾向にあることも指摘する。
 こうしたニートが年金を負担するわけでもないが、問題は自己実現を優先するあまりに職業も家庭ももたない中年男性・女性が大量に日本社会に出現した場合には、日本社会の人材の不良債権とかすという問題点も指摘されている。博士の取得者は現在日本では年間1万人といわれているがそのうち研究機関などに就職できるのは3000人ほど。つまり超高学歴フリーターがこれから7000人年間に量産されていくことになるのである。
 教育は手段であるべき、と筆者はいうが確かにそれはそのとおり。しかしもう問題が大きすぎて、政府としても対症療法はないだろう。ニューエコノミーの流れはとめることは出来ず、その結果、単純労働者のニーズは中国へ向かうのは営利企業であれば当然だ。そしてまた、国内の産業労働の人材需要が特定のスキルに向けられていることも事実なのだ。こうした時代に青少年に「夢」を語れというのはややむごすぎる。
 そしてまた親の所得や教養によって子どもに投資する教育費用の金額も大きく異なってくる。これからは塾や海外留学などをしている人間が勝ち残る可能性は高いが、塾に通学させられない家庭のほうが増えてきている。小学校や中学校の「ゆとり」路線は多分見直されるだろうが、それもそんなに早くはできないだろう。おそらくあと7~8年かかってやっと算数・数学重視に切り替われば、まだいいほうではないか。
 日本の教育や企業制度はともすればイデオロギーの場所として問題になることが多かったが、これからはどこの教育機関がどれだけ国際的に通用するスキルをつけられるか、あるいは成長性のある企業はどこか、といった視点で語られるようになる。そうしたときに、歴史教育がどうこうというのは二次的な問題に過ぎない。日本の経済成長率や情報装備率が国際的に脱落した段階で日本は世界の二流国となり、人的資源や鉱産物が豊富な中国が世界の大国となる可能性のほうが現在は高い。何が重要なのか、何を議論すべきなのかは抽象的なことは歴史学者や文学者にやらせておけばいいのだろうが、具体策はもうそろそろ技術畑の人間が社会の全面に出て語るべき時代なのではないか。

0 件のコメント: