著者名;刈谷剛彦・西研 発行年(西暦);2005 出版社;筑摩書房
一応教育学者と哲学者が教育と社会を語るという設定だが、実際にはほとんど実存とは何か‥といった普遍的なテーマにつながっていく刺激的な内容の書籍である。
個人主義といわれて久しいがその個人が一体社会とどうかかわりをもつかということが意外に軽視されている時代でもある。刈谷氏は「社会全体の自由を確保するために一人ひとりの市民が身に付けるべき知識がある」「社会の側の覚悟の問題」とばっさり断面をえぐる。選択するにしても確かに何かを犠牲にしなくてはならないのだが、最初から何も知らずに選択はできない。一定程度のスパンがあってはじめての選択といえる。昔は理系か文系かという選択だったのかもしれないが、おそらくは今は職業・選択科目のすべてが自由になっているはず。しかしその先にあるものが不明であればそれは一種の宗教と変わりがない。これこれ、あれあれがある中で、これを選ぶという決定の態度ということでもあるのだろう。また複数の人間が何かをたちあげるという場合にも必ずしもばらばらの人間がばらばらに何かをするということでもない。コミュニケーションやネットワークにも一定の集団規範のようなものがある。そうした集団規範について学習することももちろん重要であろう。また西氏がヘーゲルについてわかりやすく語ってくれている。
「自由になるためには不自由が必要だといったのはヘーゲル」
「ゲームに参加できる力がみにつかないと自由は実感できない」
「学ぶときに追体験できれば学問の重要性がわかってくる」
「経済的に自立するとは職業を通じて社会に貢献する」
自分自身では勉強することが非常に重要であるとは感じていたし、それが大体正しいのだろうとは思っていたが、社会をゲームとしてとらえて、そこに参加するためのルールを勉強している、あるいは経験して獲得したものがさらにベースとなって新たな経験につながるという循環サイクルについて明確な指針を得ることができたように思う。「わかったというときには今まで自分が持っていた枠組みに接合できた」という指摘も含めて非常にチャレンジングな示唆をこの本で得たように思う。
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