2017年11月24日金曜日

「白いしるし」

著者:西加奈子 出版社:新潮社 発行年:2013年7月1日 本体価格:430円
 32歳独身で,「アルバイトをしながら,金にならぬ絵を描いて」「国民健康保険料を払うのさえ覚束ない」状態の夏目。高校時代は大人しい生徒だったが,ある日突然,髪を青くして登校し,7歳年上の美容師と交際していたこともある。この本で印象的なのは,「色」だ。主人公の夏目の髪は黒から青へ,そしてまた黒に戻る。そして下北沢のギャラリーで,白い地に白い絵の具をすっとひいた富士山の絵画に出会う。主人公の夏目が,「間島昭史」と出会うきっかけとなる。
 この出会いから主人公は尋常ならない「恋」に陥る。Amazonの書評をみると,「こんな痛々しい経験したことがないからわからない」といった評判なのだが,はたしてそうか。ここで副読本として用いたいのは,「愛はなぜ終わるのか」(ヘレン・フィッシャー 草思社 1993年発行)の41ページだ。恋愛感情の第1段階は「匂い」や「視線」などが影響を持つが,最終的には「思考の地図」だとヘレン・フィッシャーは指摘する。すでに子供時代に家族や友人,偶然の出会いのなかで「思考の地図」ができあがり始めているとフィッシャーはいう。「夏目」は「間島」の用いた「絵の具」に反応したのだが,高校時代に出会った恋人は「青」のイメージであって「白」ではない。おそらくなんらかの「思考の地図」が夏目の頭のなかにすでにできあがっており,「間島」のギャラリーでそれが触発されたのだろう。フィッシャーによるとこの「思考の地図」はビジネススーツだったり,医者の白衣だったりすることもあるという。
 「夏目」の横にはすでに何度も飲み屋で飲んでいる「瀬田」という男もいるのだが,この男は「夏目」の恋愛対象にはそもそもならない。なぜなら「思考の地図」にあてはまらないからだ。
 「夏目」はさらに「好き嫌いがはっきり」しており,「少しでも悪意やずるいのを感じると」許せない「間島」に心をひかれていく(「白い」のイメージがその上に増幅されていく)。そして「夏目」自身も白の絵の具を多用するようになっていく(73ページ)。そして物語は佳境を迎えるが,その部分は省略するべきだろう。いずれにせよ,「夏目」は「間島」と交際し,心の交流を深めるが,「間島」は「夏目」のもとを去る。
 そして「夏目」は夜中にホルベインのジンクホワイトを体中に塗りたくる…。

 小説としては,「恋」の独占欲など「我執」のすさまじさを丁寧に,かつうまく描いている。「ホルベインのジンクホワイト」が一種の性的な象徴なのも仕掛けの一つだろう。だがもう一つ,生物学的な要因もある。人間の大脳片縁系を刺激すると,喜びや悲しみといった感情が巻き起こる。特にフェニルエチルルミンという物資が重要だ。ざっくりいうと,「思考の地図」にあてはまる「間島」に対して,「夏目」の脳が刺激され,フェニルエチルアルミンが脳内をかけめぐった状態になったということになる。そのきっかけが「ホルベインのジンクホワイト」だった…。
 「愛はなぜ終わるのか」の著者フィッシャーは,このフェニルエチルアルミンの効果は1年半から3年で消えるとしている。したがって,ラストはなかなか痛ましい終わり方ではあるのだが,その1年半後(つまり33歳か34歳に夏目がなったころ)には,こうした「恋」または「愛」または「愛着」は消える。ただ,30代半ばのフリーターの日常生活を著者は描こうとはしないだろう。たとえホルモン物質による現実の勘違いだったとしても,その瞬間は,誰にも起こりうる状態だ。そしてもしかすると人生80年のうち,たとえそうした期間が1年半しかなかったとしても…その人の人生は意外に充実したものだといえるのかもしれない。

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