2007年11月26日月曜日

財務業績報告の基礎概念

執筆;山田康裕 出版;滋賀大学経済学部 発行年;2007年11月22日
 かなりわかりやすい書籍でしかもかなり参考文献が掲載されている名著だと思うのだが、残念ながら非売品だ。こうした非売品専門の古書店もあるらしいが、内容が濃い非売品ほど逆に高い値段になるという矛盾がある。包括利益と純利益の関係などかなり難解な部分も多いのだがなんとかして一般書店でも入手できる方法はなかったものか。著者の研究業績と海外の会計基準との関連など初心者にとっても無理して読んでいればそれなりに得るところが多い会計学の専門書、研究の紹介・入門となる書籍である。

売れないのは誰のせい?

執筆;山本直人 出版社;新潮社 発行年;2007年
 客の立場にたって知恵を使い続けることの重要性をひたすら説く。とはいえ客の立場に立つというのが結構難しいのだが。製品、価格、流通、プロモーションと4つのPは有名だがその中でももっとも効果的な手法は何かを考えていく重要性。実際、営業活動はかなり一般的な職業ともいえるが実際にどういう営業活動が効果的なのかはまだ科学的に解明されているとはいいがたい。集積・体系化された知識や理論が未発達な分だけ、個々の企業やビジネスシーンでの知の集積がいかに重要かがわかる。代用品はいろいろこれからも発生してくる可能性があるからこそ、付加価値の高い「本物」をいかに提供していくか。また消費者が納得できるものをいかに提供していくかがポイントになるだろう。広告宣伝だけでは商品の需要が増えない時代だからこそ、つまりネットなどで消費者の知恵が高まり「調べてから買う」とい習性があるからこそ、消費者と企業の適切な緊張関係が必要となる。つまるところいい商品を提供していいサービスを提供する。そこに商売の基本がでてくるわけだが。

IT達人の仕事術

執筆者;ITmedia Biz.ID 出版社;ブックマン 発行;2007年
ITを利用してなるべく効率よく仕事を進めようという趣旨のビジネス書籍。合計13人のITの達人がそれぞれの情報処理のスキルを紹介してくれるのだが、案外皆さんアナログの技術を活用してソフトウェアもそれほどこったものは使っておられない。むしろ効率的にITを利用するのであれば妙なソフトウェアには頼らずに自分の頭でいろいろ工夫改善することのほうが重要なのだな、と認識させてくれる一冊。かの西村博之さんも登場している。

2007年11月25日日曜日

科学の考え方・学び方

著者名;池内 了 発行年(西暦);1996  出版社;岩波書店
 時計が右回りの理由など(エジプトの日時計)エピソードにもあふれて非常に楽しい。だがしかし経済学など社会科学の「効用」については次の1節がすべてではなかろうか。
「科学的知とは、知識の集大成のことではなく、科学がもつ論理を有効に使って見えないものでも見る、つまりたとえ見えなくても科学によって理解できるようになる力である」という定義。経済学にしろ社会学にしろ、現実に体験したりみることができる範囲は限定されている。限定された範囲内からいかにその「向こう」を予測できるかが「科学」のポイントであろう。とはいえもちろん「見えないもの」や「論理」で解明されたない表層文化についても語ることによって文化の豊饒性がさらに増す…というのは人文科学の「科学」たるゆえんであることはもちろん承知の上ではあるが…。

動機づける力

著者名;ハーバード・ビジネス・レビュー 発行年(西暦);2005  出版社;ダイヤモンド社
 ハーバード・ビジネス・レビューはケーススタディを中心に主に経営学の最先端の動向を紹介する冊子。非常に高価な雑誌ではあるが、こうして特定のテーマで書籍として再出版してもらえると助かることは助かる。とはいえタイトルとは裏腹に相当に高度な内容であることには変わりがない。この動機というのはマネージャーがいかに組織を動機付けるかという特集だがフェアプレイがいかに重要か、特に知識産業においてはフェアプレイによる経営がいかに活性化させるかを解明している。そして安易な目標管理はかえって組織の衰退を招くことも。マネージャーはなんらかのフィードバックを組織に対して返さなければならないが、このフォードバックも二律背反の単純なものになりがちであることが報告されている。人間というのはどうしても視野狭窄に陥るが、その視野をいかに拡大していくかがポイントだ、ということにつきるようだ。とはいえ安易な数値管理に陥りやすいことは、どの組織でもあることだし、ひどい組織だと数値すらない…ということもあるのだが…。

超・営業法

著者名;金森重樹 発行年(西暦);2004 出版社;PHP研究所
 東京大学法学部卒業後、不動産会社に就職しその後、行政書士・中小企業診断士として事務所を設立。マーケティングのノウハウを活用してサブタイトルが「開業初月から100万円稼いだ」となる…。余人がそう簡単に真似をするわけにもいかないが、しかし行動力と先駆者利益をうまく獲得したといえるだろう。ノウハウをかなり細密に紹介されているが、この分野でこの先生を凌駕できるほどの追い上げは難しいと考えるのが自然だ(追いつかれないという自信があるから公開されているのだろうと思う)。
 ブランド価値を高める情報発信など法律家というよりも情報発信基地として機能されている様子がかいまみえる。非常に興味深いが、では自分におきかえたときに他の人が目をつけていないモジュールに注目せざるをえないのだろう。いや、面白い。

今さら他人には聞けない疑問650  

著者名 ;エンサイクロネット 発行年(西暦);2002  出版社;光文社知恵の森文庫  
 「なぜ離婚した男は早死にするのか」などといった生活に役立つ?知識が満載。離婚は結婚の数十倍のエネルギーを使い、女性よりも男性の受けるダメージの方がおおきいからだという。男性は心理的ストレスに耐えることが出来ずにお酒に走り、肝硬変になる。そして離婚した男性の85パーセントが再婚を望むが女性は25パーセントという統計データも紹介されている(どこのデータかは著述されていない)。…なんとなくありそうだが、本当にそうかどうかは疑問。でもまあ、こういう雑学本は何かの話題として使えるものは使い、そうでなければ脳から消えていく類の話のわけで…。日常生活とか歴史のエピソードも含まれている。文庫本だがページは厚い。1時間ほどの娯楽としては適切か。

教えて私の「脳みそ」のかたち  

著者名;岡野高明・ニキリンコ 発行年(西暦); 2002 出版社;花風社
 「脳」の話は面白いが、この本は読んで見ると一般的な話というよりは、ADHDやアスペルガー症候群を中心にした本だった。とはいえ、一般生活にもいろいろ応用できる話が含まれてはいる。大人になってから自分の発達障害にきづいた人々という人もいればおそらく気がつかないまま一生を終える人かもいしれない。ただ精神障害関係に「発達」という概念が用いられてきたのはだいぶ最近のことのようだ。計画をたてない、衝動的に行動する…衝動性というのは自分の感情をある意味真っ正直に伝えること…だが、その衝動性はだいたい社会や身の回りから負のフィードバックがかえってくるのでだいたいの人間は相手の嫌がることはしないように気をつけて成長していく。だがそこに発達障害がおきれば他の人への思いやりとか心理とかの想像力が欠けるようになる…。読み進めていくとこれは特殊な話でもなんでもなく自分自身がもつ発達障害やあるいは身近な大人の人の発達障害といったことにも思いが及ぶようになる。対談を含む真摯でなおかつ知的な本。

ユダヤ系アメリカ人

著者名;本間長世 発行年(西暦);1998  出版社;PHP研究所
 著者の本間長世氏には、英語の授業を受けた経験がある。オーソドクスな授業展開で多分学生の「頭の悪さ」にいらいらされていたのではないかと今思えばするが、かなり紳士的な扱いで授業を進められ、「一般教養」という授業であるにもかかわらずトクヴィルなどの英語教材をわざと理系進学予定の学生に読ませておられた。当時の理系の学生と今の理系の学生とでそれほど意識に差があるとは思えず、「まあ単位さえもらえればいいや」と考える99パーセントの学生の中でそれでも同期の人間の中には1000人に一人ぐらいの確率ではあるがめざましい英語読解能力を身に付ける人間もいたことはいた。なんだか今思えば懐かしい気もするが、当時の教授の姿勢は自ら学ぶ者にはチャンスを与え、そうでない者には単位だけ与える…という合理的な授業展開をされていたように思う。
 さてこの「ユダヤ系アメリカ人」でもほとんどの読者がサラリーマンと想定される新書の中で、かなり大胆な試みをしている。ユダヤ系アメリカ人の歴史をまずヨーロッパ、そしてローマ帝国までさかのぼり、そしてまた現在にたちかえり、アメリカ人とは何かを定義しようというのである。壮大な試みでしかも途中ハンナ・アレントの「全体主義の起源」まで引用されるのだから壮大だ。だがかつての教授がそうであったのと同様にこの新書から巻末の膨大な英語文献に進む読者を1パーセントの確率で模索されているのではないかという予感もしないではない。売れるというより読者を刺激して啓発するという本来の書籍の役割を果たそうとしている気もする。そんな刺激的な本なのである。
 したがってアウシュビッツの歴史も単にドイツだけの問題とはせずにアメリカや英国でのユダヤ人差別も取り上げ相対主義的な観点で材料を調える。キッシンジャーもとりあげられるがユダヤ系マフィアについてもとりあげる。裏社会も表社会と同じくアメリカ人の定義にしするからだろう。そしてこの本のサブタイトルは「偉大な成功物語のジレンマ」となっている。戦後、ウッディアレンなど文化人やエンターテイナーを生み出し、そしてマスコミや金融業界で大成功を収めたユダヤ人は、そのアイデンティティを失いつつある。ワスプとユダヤ人との混合といった現象は、ユダヤ人としての民族アイデンティティを喪失させる結果にもなっていることへつながる。だがしかしそれはアメリカ人を定義することが難しくなることと同じだ。一見差別はなくなったようだ。だがしかしそれはアメリカ人というものをどうするのかといったテーマには実は結びつかない。したがって「ジレンマ」となるのである。面白いし、しかも将来につながる話でビリー・ワイルダーや「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」など映画からの題材も多数ある。

退屈知らずの食通読本

著者名 ;話題の達人倶楽部  発行年(西暦); 1995 出版社;青春出版社
 この手の雑学本の中ではかなり内容がある本ではなかろうか。天麩羅定食の食べ方とかで何から食べようかと迷うときには、味が薄いものから濃いものへと移動するほうがいいらしい。エビとかキスとかを食べた後に貝柱などへ進むというのが王道とのこと。大根はコーカサス地方からでてきたものとか、ゴマの栽培はエジプト人が始めたものとかエピソード満載。また、「人生の目的は快楽である」とするエピクロスの「快楽」とは「苦痛と混乱からの解放」‥。また餃子を中国本土ではじめたのは清朝のヌルハチで怪物を退治してその肉を小分けにして食べたのが始まり。さらに肉料理に赤ワインとかマロングラッセを持ち込んだのはあのマリー・アントワネット。クロワッサンももともとオーストリアのパンだったのだが、それをフランスに持ち込んだ。ブダペストをトルコ軍が包囲したときに早起きパン屋さんがその襲撃にきづきトルコ軍を撃退。トルコ軍の旗である三日月を形作ったパンを作ったのがオーストリアでのクロワッサンの始まりだという(1686年)。食べ物は文化というがこんなところにもオーストリア・ハンガリー帝国の歴史が…。

知識人99人の死に方  

著者名;荒俣宏 発行年(西暦);2002 出版社;角川出版
 いわゆる知識人99人の死に方や死に際しての逸話を特集したもの。特に巻末には死因ごとに知識人がデータベースとして収録されており、だれがどういう病気で死んだのかがわかるようになっている。近代が「死の瞬間」を重視するあまり、死の準備というかその前段階をある程度「問題の外」におく傾向があったのかもしれない。どうしても知識人の死に方というのは、その前段階については省略されがちだったりするが、だいたいどの知識人についてもその数ヶ月前あたりからさかのぼったエピソードが収録されており、それが99人分並列して配置されてみると人間というものについていろいろ考える材料には確かになる。こうした死の瞬間についてはもちろんキューブラー・ロスとか「臨死体験」とか種々の本があるわけだが、データベースとして配置されるとまた既存の書籍とは異なる感慨もうまれてくるというもの。気軽に読み始めて一気に最後まで読めるエンターテイメントであると同時に資料としても有用かもしれない。

ドキュメント「超」サラリーマン

著者名 ;読売新聞経済部 発行年(西暦);;2001 出版社;中央公論新社
 「マーケットバリュー」という言葉が独り歩きをしていた時代のルポといえるのかもしれない。現在はややそうした市場競争への思い込みがだいぶ沈静化しているようにもみえる。また創造性など重視しているとして紹介された企業の中にはその後、統廃合されてしまった例もあり、なかなか「予測」と「実際」が一致するのは難しいようだ。どうしてもマスコミは、「断言」しなければ報道に迫真性がでてこないという宿命をせおおているだけに本当かどうかわからないことでも「だ」「である」で断定しなくてはならない。そこで、本当かどうかわからなくても断言的に著述しなければならないわけだが、現実はまた違った論理で動くわけでそうすると数年たってみると「予想と異なる」世界が広がる。ま、それに不況だとどうしても悲観的にもなるしな…。ただ予想されていたほどには日本企業には市場競争はねづいていないが、それもまた当然かもしれない。生物学的には競争社会こそが人工的で実際の生物はそれぞれがぶつかりあうことがないようにという配慮で住み分けをするという考え方もある。サラリーマンは人生の中で数十年を占めるにすぎない一つの生き方ではあるし、他人がどうあれ自分のまず向かい合っていることについて何かと小さな対策を講じていくほうが重要なのかもしれない。いや、難しいものだ、人生は。

知の技法

著者名;東京大学出版会 発行年(西暦);1994 出版社;東京大学教養学部「基礎演習」  
 購入してなんと10年目。往年のベストセラーであるが確かに書棚になければ多分読まないだろう人文科学のガイダンス本。「学問の行為論」など種々の挑発にあふれているが、実践的なのは「表現の技術」の章。だが論文やら科学といったとらえようが難しいその入門について「発見」「普遍性」「視点」とった紹介がなされている。たしかに発見と合理的説明がなければ論文にはならない。そのあたりまえのことがここに発見されているのだから、やっぱり基礎から入るのは重要だと思う。こんなすばらしいエンターテイメントがそのままテキストになった学生がうらやましい。

2007年11月24日土曜日

いいことを考えると「いいことが起こる」心理学

著者名;和田秀樹 発行年(西暦);2005 出版社;新講社
 ややタイトルが恥ずかしいのだが、これはもう少しならないものか。斉藤孝の本はタイトルがうまいのだがどうにもなあ…。「無意味に悲観的になるより」「いいことを考えるクセをうけよう」という趣旨で、人間の心理特性としてどうしても物事を悲観的に考える癖がないでもないということがある。自己評価も当然低くなるわけだが、自己評価が低い場合にはあまり仕事の達成度などは高くならないという傾向があるようだ。ある程度自己に対する信頼度がなければならないということなのだろう。「自己暗示」と「小さな結果」でだいぶ人間は変化できるということを認知科学の観点で説いているわけだが、そしてまた「本質的解決はなかなか人間にはできない」という趣旨にもよるものだがかなり実践的な内容だと思う。だって「自分てどういう存在か」ということを解決するのはかなり本質的な問題だが、そうした本質的な問題はおそらく一生かかっても解決できないことなので、ある程度思春期に悩んだらその後はそうした問題は走りながら解決するというのが確かに実践的だ。人生や命をかけてまで解決するべき問題などさしてないという立場に立ってわりとプラグマティックに問題解決を図ろうという趣旨なのだろう。いや、結構悲観的に物事を考える自分としては、わりと納得。

今日から「バッサリ」明日からスッキリ!

著者名;和田秀樹 発行年(西暦);2005 出版社;株式会社GB
 認知科学の観点から自分の成長からみた人間関係などをバッサリなどとする奇書。タイトルがすごい恥ずかしい上にイラスト満載さだがそれでも説得力にあふれるノウハウ本。いや、私はいわゆる「和田オタク」なので点数が甘いのはしょうがないのだが。
 ただもう痛快なのはときおりページにははさまれている断定。「昔の栄光を過剰評価する人というのは、現状のちょっとした幸せを喜べず、現実的な判断ができない」というくだりは痛快でもある。「個性的なアイデアはよほど個性的な人間しか出せません」というのもそのとおりだと思う。どうしても個性が重視される時代ではあるのだがその99パーセントは誰かがやってきたことの繰り返しにすぎない。いわんや私などもその通り。ただしある程度人まねをしてその後に少しだけオリジナリティを出すことは将来的にも自分には可能かもしれない。あまりに極端な個性教育は頭の悪い人間とか非社会的人間の大量生産体制にもつながる…ということはこの本を読むとよくわかる。

初等ヤクザの犯罪学教室

著者名;浅田次郎 発行年(西暦);1993 出版社;ワニブックス
 浅田次郎の小説には一時期はまって読み漁った記憶がある。エッセイから長編小説までその当時入手できるものはすべて入手して読破し、手元に残したのはこの本とあと数冊で残りはすべて処分した。もともと「企業舎弟」として独特の経済犯罪(?)に手を染めた浅田氏はそうした生活の中でも小説家になることを目的として、文章や小説の読破は毎日されていたそうだ。犯罪者としてではなく、直木賞作家としてかなり遅れたデビューだったが、受賞後も売れる本を連続して出版できたのは、それまでの極道としての生活の中で自分なりのデータベースを蓄積していたからだろう。この本の中でも、「拙速を尊ばず」「悪いことほどまじめにやる」「「常に勤勉であれ」とまるで「論語」のような犯罪哲学が説かれるのであるが、「すべて大きな仕事というのはその社会的正当性とは関係なく、すべて知識と教養に支えられているものでありまして、犯罪の分野でもまた然りであります」という一文に浅田氏の人生哲学が凝縮されているようにも思える。「この先、どんな世の中になっても書物こそが精神と頭脳を練磨しうる最大の利器なのであります」と書くその哲学は、シュラバを踏まえつつも社会的正当性が最大限に発揮される文芸という場所で昇華されたように思う。直木賞はやはりバカにはできない。なぜってとれる人間はこれから何十年たっても一握りに過ぎない。やはり賞であれ小説であれ、最初に形にしてしまった人間にこそ賞賛される資格がある。ときに「功利的」とも評される浅田氏だが個人的には、やはり己の人生をかけてそして中高年の領域に達して文章に反映できる浅田氏の生き様は、今のこの逼塞した平成の時代に人一倍味わいぶかいものがあるように思える。

ハプスブグルグの女たち

著者名;江村洋 発行年(西暦);1993 出版社;講談社現代新書
 ハプスブルグ王朝の魅力は、一種の「特権階級」でありながら、人間臭さがにじみ出てくる独特の家風にあるのではなかろうか。時に屈辱的な環境におかれ、耐えに耐えて最後には政治的に勝利するという独特の手法でフランス革命やナポレオンの荒波を乗り越えて最後の皇后は1989年に亡くなる(ティタ皇后)。この本ではマクシミリアン1世のお后(マリア)、フィリップ美公の妻と妹(ファナとマルガレーテ)、「貴賎結婚」、マリアテレジアとその嫁、娘、マリー・ルイーズとレオポルディーネ、バイエルンからの花嫁(ゾフィーとエリザベート)、フランツ・フェルディナントとゾフィー・ホテク(第一次世界大戦のきっかけとなる暗殺事件の被害者)、カール1世とその妻ブルボン・パルマのついて特集されており、初代ルドルフ1世からハプスブルグ王朝の歴史を一気に近現代までかけあがるがそのスピード感がまたたまらなく面白い本でもある。
 オーストリア継承戦争や7年戦争などの歴史的背景やその当時の王朝の対応策などがまた別の視点から理解できる。豊富な図版と絵画の挿絵もまた魅力だ。

暮らしてわかった!年収100万円生活術

著者名;横田濱夫 発行年(西暦);2004 出版社;講談社
 いぜん出版された単行本の文庫化。単行本のほうは既に読んでいたがそれでもハンディサイズの文庫版で読み直してみるとまた読後感が異なる。文庫本と単行本は大きさだけの差ではないと思う。何かが違うのだがおそらく読みやすさによって感想とかも違ってくるという微妙なことなのだろう。さて100万円生活術だが銀行を退職してからの年収激減生活をいかにして乗り切ったのかについて解説。いやある意味ケチケチ路線なのだが、その中でのライフスタイルを追求しようという姿勢がすばらしい。特に銀行員からみたカモの顧客を紹介してくれているので、これから先銀行営業の口車にのかって外貨建定期預金やら投資信託やらに安易に乗り出すこともなくなるというメリットあり。最近田舎の知人が800万円の外貨建定期預金を組もうとしていたが、う~ん。もちろん外貨建定期預金に都心も田舎もないのだが、手数料そのほかの利率を考えてもとくに外貨建にするメリットはほとんどない。でも都市銀行ブランドというものはある意味地方ではまだ健在ということなのかもしれないが…。

嫌われものほど美しい

著者名;ナタリー・アンジェ 発行年(西暦);1998 出版社;草思社
 「長年にわたる科学とのかかわりで私が学んだのは、見かけどおりのものは何もないということだ」という理念のもとに生物学もしくは進化論の視点から人間生活に別の視点からの考察をする。
「大勢の相手とセックスしたがるのはオスだけとか、メスはもっぱらひとりの好ましいオスを求める、といった陳腐な固定観念は正しくないことがわかる」「多数の相手と交尾するメスは、すぐれた遺伝子を子に伝えるというより、多様な遺伝子を確保して、少なくとも子供の何割かは確実に生き残るようにしているといえる」といった論旨から有性生殖がなぜおこなわれるかについて一つの仮説をたてる。本来ならば無性生殖のほうが単純で合理的なはずだが、生物の多くは有性生殖を進化の過程で獲得する。それはおそらく、有性生殖の方が多様な遺伝子を獲得できるとするものだ。こうした進化の過程の研究で寄生虫(パラサイト)の研究が注目されていることも紹介される。さらに動物がなぜじゃれたりかみ合ったりして「遊ぶ」のか、についても興味深い。遊ぶという行為には当然リスクがあるがなぜリスクがあるのに動物は遊ぶのか。一つには遊ぶことによって動物の頭の中にあるシナプス接合が活発化するから、という説が紹介される。また逆にシナプスを形成している時期にもっともよく動物は遊ぶ。さらに遊ぶことによって筋肉組織の発達にも役立つ。動物は遊ぶことによって将来必要な行動を獲得するというものだ。社会的動物の場合には、遊ぶことで固体を集団生活に溶け込ませる役割もはたす。さらに遊びを高度化するのにはコミュニケーション能力が必要になる。人間の場合にはさらに遊ぶことによって言語を獲得することもできる。
「多くの動物のメスはオスが寄生虫や病気に感染しているか否かを示す兆候に、もっとも関心をもつという」「動物がなぜある固体にひかれるのかを研究しているのかを研究している学者の多くは、美しい顔や姿が異性をひきつけるのは美的な理由からではなく、外観の美は中身の質をかなり正確に反映しているからだという」こうした遺伝子の多様性はたとえばマダガスカルのカタツムリでほんのわづかな遺伝子の差でまったく異なる食生活をおこなうことで生き延びた例などが紹介される。動物園のチーターなどの繁殖がうまくいかないのは個体間の遺伝子の差がさほどないからだという説もあわせて紹介される。女性の月経についても男性の精子が病気を媒介するのを防止する役割を果たすという説が商会される。
そしてさらにテーマは人間生活に密着していき、「肥満」というテーマでは、脂肪のメリット・デメリットについてとき、「喜び」については、エンドルフィンの分泌に有用だからではないかという説が紹介される。
そして最後の章では、いわゆる躁うつ病について、ハンガリーなどの遺伝子的データなどを紹介しつつ、もちろん仮説として、先史以前からおそらく人間にはこうした精神的な波のようなものがあり、そしてそれは進化の過程で必要だったからこそ現代でもなくならないのではないかという推測を提出する。
「もし躁うつ病やより軽い気分障害に悩む芸術家が、病気の発現期に目もくらむような想像力の大波に翻弄され、右舷と左舷の間を揺れ動くのだとしたら、港に帰りついたとき、彼らが苦しい経験を糧に美しいものを創造するのはなんら不思議ではない」
「この病気がなんらかの理由で淘汰されずに残って存在することを示唆している」
「先史時代にはこの特性を受け継いでいる人間のほうが有利だったと考えらえれる」
「…抑うつ感を感じたと報告しうたときには扁桃体、眼窩前前頭皮質、帯状回など大脳辺縁系の特定部位の活動が減少」‥といった進化論のプロセスで興味深い「仮説」が提出されている。もっともどこまで正しいかは本当に不明ではあるがとにもかくにもピュリツァー賞受賞の著者と名翻訳家相原真理子氏の絶妙のコンビで最後まで一気に読ませてくれるサイエンスノンフィクション。

疲労とつきあう

著者名;飯島裕一 発行年(西暦);1996 出版社;岩波新書
 バブル経済と平成大不況の両方の時代を経験してみると、おそらく中規模での経済成長がいかに大事かということがわかる。
 バブル経済はバブルであるがゆえに、限られた労働力を限りなくフル稼働させることでさらに高い経済成長を実現したという側面がある。その結果、豊かな生活が実現されるはずが過労死や業務の重圧にたえかねての自殺者などが生まれるという暗い時代をうんだ。そして平成大不況でも失業や終身雇用の幻想がくずれた社会で自殺率が増加した。この両方の現象からして、人間は急激な環境変化には非常にもろい存在だし、単純なライフスタイルだの生活哲学だのは本当に役に立たないものだとも思う。今は市場経済が叫ばれているがそれだって10年後どういう評価がくだされるかはわからないということは確実にいえるだろう。その中でどうしても「疲労」という現象はどちらにも共通してあると思う。バブル経済であれ平成大不況であれ経済環境の変化にともない、身体的もしくは精神的疲労というのは相当に当時のサラリーマンに蓄積したはずだ。その疲労とどう戦うかということは結構切実な問題ではないかとも思う。
 深い眠りやそして複線型の生活スタイルなどが説かれるが、もちろんこうしたことは常日頃から心がけていないと実現できるものではない。夢とか理想とかいう言葉と現実主義という言葉とはそんなに簡単に両立できるものとは思えないが、おそらく学生時代にいだいていたはずの理想が崩壊するのは現実主義からくる「疲労」によるものが相当に大きいのではないかとも思う。
 人生は短いし、短い中で時間を活用するときには身体的・精神的疲労の蓄積はさけたほうがよい。健康というものへの警鐘をならす新書本で、景気回復の様相がではじめた昨今、過去をふりかえって日常生活でいかに健康を維持するのかは考えておくべきテーマだと思う。

私日記・荒木経惟写真全集8

著者名;荒木経惟 発行年(西暦);1996 出版社;平凡社
 1980年という時代を中心に映画「チゴイネルワイゼン」のスチール、その後自殺した女性や中上健次、坂本龍一、山田詠美、タモリといった1980年当時の有名人、さらにタケノコ族や雪の神楽坂などさりげない写真がさりげなく配置されており、入院した東京厚生年金病院でも写真をとるというすさまじさ、「過激」という言葉は何を指すのかはともかく、被写体がどうこうではなく1980年という時代がそのままえぐりとられて1冊の写真集に集められ、そしてそれを2005年の今みて「衝撃」を受けるというあたりにこの天才写真家の天才たりうる側面があるのか。時間の感覚がまるでずれたようなタイムマシンのような経験を写真から受ける。
 いまやネットでいくらでも「過激」な写真は入手できるわけだが、そうしたある意味では安易で手軽な「過激さ」ではなく時代というものをえぐりとるような写真集というのはそれほど世の中にはないと思う。デジタルカメラの安易さは写真の質の低下をうんだが、でもおそらくは、ツールではなくやはり撮影する人間の美学こそが写真集の真髄なのだという確信がもてる。時間と空間のネジレを経験できる写真集としてお勧め。

自分「商品化」計画

著者名;野村正樹 発行年(西暦);2000 出版社;brain cast
 いや、ライフスタイルとか市場化とかいった流れから、キャリアとかスキルを一種の商品特性としてとらえて既存のマーケティングの業績を応用しようとしたものだが、正直成功しているとは思えない。やはり人間どうしが集合して企業を営むため、どうしても商品とは異なる側面が多々でてくる。リストラにせよ賃下げにせよ、商品がもたないやる気とか達成意欲とかのことを考えると…。ただしドライな経営やドライな会社でいかにして自分を差別化していくかということについて考える一つの材料にはなるかもしれないが。

イギリス不思議な幽霊屋敷

著者名;桐生操 発行年(西暦);1997 出版社;PHP研究所
 う~ん。いまさらロンドン塔とかを紹介されても困るかも…という感じのエピソードをいくつか収めた歴史本。リチャード三世とかジャック・ザ・リッパーとかの紹介なのだが、どれもいまひとつ深みにかけ、そして面白くない。さらには文章とかが相当に入り組んでてよみにくいときたものだ。
 エドワード5世とリチャード3世との話は有名だし、もっと構成をうまくすれば面白くなったのかもしれないが…。なんとなく事実と仮説の区別も曖昧なのでどこまでが筆者のオリジナルなのかもはっきりしない。歴史とはいってももう少し材料をうまく活用できなかったものかと惜しい気持ちもある。ビビアン・リーについても結核とかローレンス・オリビエとの結婚生活以外にもっとふみこんだ描写があってもよかったとおもう。天才女優を紹介するにはあまりにも綺麗ごとすぎる気もしないでもない。

江戸のナポレオン伝説

著者名;岩下哲典  発行年(西暦);1999  出版社;中公新書
 「鎖国」という状態がまったく諸外国と遮断されていた状態ではなく、「鎖国令」という法令も存在しなかったという「通説」の誤解をまずときほぐされる。あくまで世間一般に用いられている鎖国とは17世紀のドイツ人ケンペルの概念だという。あくまで対外貿易の管理統制、異国船に対する防御体勢そしてキリスト教の防止というのが鎖国の実体で実のところオランダをはじめとして幕府は諸外国の動向を分析していた。しかしオランダはナポレオンによって侵略され、しかもフランス革命自体は江戸幕府は把握していた。ということはフランス革命後に登場したナポレオンとつながりをもつオランダ自身もそのことを明らかにすれば幕府との交易を絶たれることになる。そこでこの本はいかにしてナポレオンが江戸幕府に伝わったのかを明らかにしていく。実際のところ江戸時代の末期には異国船がそのまま海岸にのりつけ村民と直接交渉をして物々交換をするということもあったらしい。教科書には著述されない鎖国の実体をこの本で知ることができる。

知のモラル

著者名;東京大学教養学部   発行年(西暦);1996  出版社;東京大学出版会
 「知の技法」につづく大学のサブテキスト第3弾。この本もまた新刊で購入したのに9年間も本棚に入ったままである。おもえばやはりテキストという言葉に恐れを感じる自分と「今さら知のモラルなんて」などとためらう自分が手をとるのをこばんでいたのかもしれない。だがしかし内容はやはり面白い上に、法律から文化論まで幅広い題材。そして読み終わった後には自分自身の「モラル」について考えざるを得ない(そして答えはでない)という逼塞状況に陥る。「逃げること」を近代社会は否定したが、それはまたある部族社会のモラルを維持する役割をしている。それでは現代の日本社会で「逃げる」というメリットあるいはモラルとはなんだろうか。あるいは法的闘争をするとして、その闘争が終了したのちに、闘争した人間はもとの状態に戻ることができるのだろうか。近代や現代、そして知ることの「モラル」や「モラル」という言葉の意味そのものについてもおそらく学生時代に問いかけられ、その後の一生で答えがだせないかもしれない問いを発するとんでもない知の入門テキストだ。

斉藤孝の読むチカラ

著者名;斉藤孝  発行年(西暦);2004 出版社;宝島社
 「間主観性」という耳慣れない言葉で現代国語の答案、とりわけ記述式は出題者の主観と解答する人間の主観との「間」(=グレーゾーン)をいかに埋めていくかと説明してくれる。出題者の意図をくみとって、さらに解答する側は問題文の「限定条件」を判断し、答案を記述するという制度システムを明確に説明してくれる。こうした発想は近代主義の産物だが、斉藤孝氏は別の書籍で「近代が理解できないのにポストモダンが理解できるわけがない」という趣旨のことを書かれている。まずは「おそらくこうであろうという出題者の意図を汲み取り、それにそって近代主義的に答案を書く」という方法論を提示したものだと思う。「絶対問わなければならない問題のツボ」を踏まえた問題が品性のある問題であり、その問題にいかにして公共性、古典(法律でいえば通説か)を引用しつつ的確に答案が論述されるかの方法論について述べられ、必ずしも楽ではないが、しかし近代主義を超えるには必要な方法論を提示してくれていると思う。こうした近代の答案を書くにはもちろん情報処理能力が高くなければならないわけだが、それは限られた時間の中で答案をいかに構成していくかという問題にもなるわけで、限定された資源を最大限活用するという近代経済学の趣旨にもそう。ということはこうした本を読むことも決して無駄ではなく、営業力などにも応用可能なスキルが提示されているのだと思う。いわば答案は違う主観と主観の間を埋める共通理解を示すものだから、「共通理解」「共通理解」といったシグナルを送らなければならない。マークシートであれば当然共通理解はマーキングで提示されるわけだが、文字や論旨などすべてにわたる共通理解を把握するには、う~ん、やっぱり記述式が一番なのか…。

頭がいい人の習慣術 実践ドリル版

著者名 ;小泉十三 発行年(西暦);2004 出版社;河出書房新社
 「実践ドリル版」となっているが、いろいろな各種ノウハウ本の中で筆者が「実践」した内容と結果を要約して伝えてくれる本。日々の仕事を通じて知識を拡充するというディープナリッジや目的設定の重要性について再認識。
 目標や目的をみそこなうと普段の情報収集にも「歪み」がでてくる。最終目標がどこにあるのかをみつめておかないと手段が目標にもなりかねない。あんまり深く考えすぎるのも問題だが、目的の方向性を見失うのも危険だ。
 野球選手のイチローが「ボクは自分がやっていることの説明ができます」という含蓄の深い言葉を残しているが、これって種々の複雑な要因を自分なりに客観的に認識して目標にむけて努力の方向性が確認できているということではなかろうか。この領域にまで達して、しかも努力を積み重ねることができるからこそ、あのすごい記録がでてくるのかもしれない。そこまで適正な努力を積み重ねてしかも自分自身で方向性やプロセスを修正できるということ自体、天才の所業といえるのかもしれない。こうした説明可能な努力について考えることができたのはこの本のおかげ。ただし個人的に取り入れようとおもったノウハウは実はそれほどなかったりした…。

朝の通勤時間、知的な使い方

著者名;現代情報工学研究会 発行年(西暦);2000  出版社;講談社
 夜型と朝型の両方があると思う。自分自身は夜型だと思うが、それでも何か重要なことがある前には朝型に調整する。もともと人間は朝型にできているはずで、日光や朝の空気で覚醒の度合いは相当に違うと思う。しかし夜から朝へ生活スタイルを移行するときにはどうしてもその前日の「夜」から生活の調整をする必要性がでてくる。つまり朝をなるべく活用するためには夜は早く寝て、さらに翌日に備えてからこそ電車の中で読書をしたり音楽を聞いたりすることもできる。会社の都合で夜が遅くなる人にはこの本は向いていないだろうと思った。実際接待や営業などで深夜帰宅になった人が無理に睡眠時間をけずって朝早くおき、さらに勉強するなど不可能に近い。夜型であればこの本の内容を帰宅途中の電車の中におきかえて読み解くのがいいのかもしれない。時間は等しく人間に与えられた資源だが、その資源の中いは自分自身の都合ではどうにもならない部分がある。そうした制約条件はあらかじめ考慮しておいて出来る範囲でできることをするというのが正しいあり方のようだ。

「企業会計」9月号(中央経済社)

著者名;中央経済社 発行年(西暦);2005 出版社;中央経済社
 会社法改正にからむ「変貌する資本制度」についての特集号だが関係する論文は正味で5本。「資本制度の国際比較」ではアメリカにおける資本制度の形骸化とヨーロッパでの資本制度、そして日本の資本制度の展望が試みられている。また「新会社法による資本の変容」では昭和25年以後の商法改正をふりかえりつつ、今回の商法改正を総括し、その次の「債権者保護機能からみた資本制度」「会計理論からみた資本の部の変容」に論点が橋渡しされる。個人的にはこの「会計理論からみた資本の変容」が一番論点がわかりやすかった。資本取引という意味が「株主取引」に限定されつつある現状やそうした意味でのその他有価証券評価差額の資本計上の問題点(その他有価証券に評価差額が生じてもそれは株主には関係がないので)や現在では剰余金区別の原則があまり重要ではなくなってきていることなどが指摘されている(たとえば自己株式処分差額などは暫定勘定項目となる)。やはり会計専門の雑誌だけあって非常によみごたえのある論文が揃うがたまにはこうした雑誌を読み解くのもいいことだと思う。ただし値段が高いのが頭が痛い…。

資本の部Q&A

著者名;中島祐二・山田眞之助・平井清 発行年(西暦);2005 出版社;中央経済社  
 会社法の現代化にともなう資本の部に関する改正について解説。やや読みやすいように編集されている上に仕訳なども著述の中にとりこまれていてわかりやすい。もともと「資本の部」と限定してあるのでそもそも仕訳とか会計処理についてある程度理解ができる読者を想定しているのだろうと思われる。設立時の定款記載事項、事後設立、新株発行、新株予約権などは公認会計士の著作らしいこだわりの文章が並ぶが、個人的には第6章に相当する資本の部の「計数」の変動が興味深い。株式会社はいつでも株主総会の決議があれば、資本の部の資本金や準備金などの数値の変更ができることになる。剰余金の分配がいつでも株主総会でできることになったためその制度と整合性をとるためとされている。準備金の資本組入れなどは株主総会の普通決議が必要とされた。こうした資本の部の自由な変動は企業の弾力的な資本構成戦略を図ることがっできるので物理的な合併などの企業再編を図ることができるのみならず、単独企業の資本の部の構成もまた弾力的に編成できるのが望ましい方向性だろう。もちろん制度の弾力化は不正の温床にもなりかねないがそれはまた公認会計士や裁判所などが受け持つ「信頼性」「適法性」といった分野の話になると考えられる。

天の涯まで(上)ポーランド秘話

著者名;池田理代子 発行年(西暦);1991 出版社;朝日新聞社
 ちょうどエカテリーナ2世やフリードリヒ2世、マリア・テレジア(その息子ヨーゼフ2世)といった世界史の主人公ともいうべき君主がそれぞれの思惑で国土分割をおこなった時期。その影にかくれてとうのポーランドの視点で当時の歴史を伝える試みというのは少ないわけだが、ポーランドの国王そしてその嫡子と非嫡子の兄弟を軸にさらにオーストリアとロシアの思惑に左右されていたポーランドの歴史を描く。おりしもトルコのロシアに対する宣戦布告やポチョムキン将軍など登場人物も絢爛豪華。さらにフランス革命はポーランドの愛国者たちを刺激するという「いい場面」で上巻が終了。解説は社会評論家の小沢遼子で、フランス革命と全共闘世代のシンクロやフェミニズムの台頭とオスカルとの関係などについて書いている。なぜこんな古ぼけたマンガ本が書棚にあったのかは不明だが読み返してみてもとにかく面白い。蹂躙された国家の栄光復活を願う陸軍将校というのは合併・吸収された企業の人にもなにかしらのヒントにはなるのかも。

天の涯まで(下)ポーランド秘話

著者名;池田理代子 発行年(西暦);1991  出版社;朝日新聞社
 ポーランド第二分割・第三分割。そしてナポレオンによるワルシャワ大公国の復興とロシアのアレキサンドリア1世との戦いなど世界史のエピソードを網羅してさらにナポレオンのポーランドの妻としてエレナ島についていくマリアの姿もえがく。どうみてもエカテリーナ2世はやはり当時にしては相当なやり手でなおかつ共和制に対してかなり反感をもっていたようだがポーランド内部でも共和制と立憲君主制の二つが混在し、そして共和制の戦士の中にはアメリカ独立戦争とフランス革命をへてポーランド独立にかけた人間までいる。激動の時代だが、国とか個人とかそうした問題をつきつめて考えて行動できたのはやはりすごい。ポーランド共和国が誕生するのは1919年のベルサイユ条約によって。ただしその後この国は再びナチスドイツに蹂躙されることになる…。

中沢新一の宗教入門

著者名;中沢新一  発行年(西暦);1993 出版社;マドラ出版
 学園闘争の後、宗教学が隆盛をきわめたことについて進化の対象を人間は内面にもとめていったことを指摘。さらに進化への衝動を音楽にもとめても音楽は他の領域を巻き込む大きな変化にはなりえなかったことを指摘している。さらにキリスト教が本質的にはかなり曖昧で不安定であるがゆえにグノーシス派などの異端を多数生むと同時に異端をつぶすことによって一部の正統派が現在に至ることも明らかにしている。ちなみに福音書についてもニケアの宗教会議で認定されたものが現在の新約聖書で本来は「マグダラのマリアの福音書」などとんでもない自由な内容をもつ福音書が存在していたことも指摘。人間の次元を超えた「何か」を求める宗教学の魅力についての4回にわたる口述講義の集大成でありしかも宗教学の入門書。面白い。

ユーゴスラヴィア現代史

著者名;柴宣弘 発行年(西暦);1996 出版社;岩波書店
 やや細かすぎる歴史的著述が非常に辛いが、それでもスロベニア、クロアチアそしてボスニア人とイスラム人といった複雑な民族と宗教の混在がいかにして対立をうみ現在に至るかが理解できる歴史の本。最初は王国として、二度目は社会主義国家として南スラブ民族の統一といったテーマを追求したがもろくも破綻。民族と民族がそれぞれに対立の歴史をもち、しかもボスニア人は前回の内戦ではかなりの悪者とされていたが、それもヨーロッパ諸国の外交戦略の一つだった可能性も指摘されている。
 特に個人的にはハプスブルグ王朝とオスマントルコにはさまれつつ、さらにロシアとオスマントルコの戦争を乗り越えて第一次世界大戦、さらにナチス・ドイツの侵攻といったくだりが圧巻であるように思った。「アンダーグランド」など映画の紹介なども随時なされバルカン半島を舞台にした映画のさらに細密な理解にもつながるように思える。

情報社会の子どもたち

著者名;小川信夫 発行年(西暦);1993 出版社;玉川大学出版部
 両親の離婚など複雑な家庭が影響を与えるケースもあればそうでないケースもある。一時期流行した「ドリカム」現象とはいっても現在はドリカムは女性と男性のペアにはっているし、所詮、パソコンゲームも二次元世界の架空であって、確かに一時期は「はまる」だろうが、シンナーや飲酒にはまるよりもある意味健康的かもしれない。
 というのもこの本では確かに情報化社会とは一種の「中世ににた状況」で「大人の情報がそのまま子どもに伝わっていく」ことが懸念されているようなのだが、セックスなどの情報はもちろんとして、ある意味、大人の余計な手間を情報化社会が省いてくれているというメリットもあると思う。そもそもメディアで性教育をしてくれるのであれば、それが一番日常関係を壊さずにすみ場面も多いと思うし、多分、昔からそうした知識は同世代の仲間内で処理・解決していたであろうから。
 あまり次の世代に余計な「手間」をかけずに、次の世代がやりたいように次の社会を構築できる「術」みたいなものを会得したほうがいいのかもしれない。そもそも自分たちの世代だって前の世代からはいろいろいわれたわけだが、大人になってみれば皆それぞれの社会的実績を積み上げている。「今」を越えるには、「今」の問題点をつぶさに観察してそれを伝承させていくことを考えるべきなのだろう。もちろん取り返しのつかない失敗や恥ずべき事件なども含めてだが。

臨死体験(上)

著者名;立花隆 発行年(西暦);1994 出版社;文藝春秋
 オカルトめいたタイトルだが上巻を読み終わった感想ではむしろ筆者の立花隆氏はかなり心理体験については懐疑的だという印象をもった。ある意味不可思議な体験の多くが、脳内物質のエンドルフィンの増加で説明され、死にあたってはこのエンドルフィンが増加して一種の「ハイ」な状態になるのではないか。また脳内にある側頭葉を刺激すると一種の浮揚感がまきおこるという実験も紹介されており、脳内物質や脳器官の部位の研究がこれからさらにすすめば「科学的に」実証される部分が多いことも示唆されている。とはいえ一種の超常現象としてのオカルト説も一応紹介されてはいるが、だいたいの読者には、オカルト説は支持されないのではなかろうか。
 こうした死と人生のかかわりはギリシア哲学からキリスト教にいたるまでかなり研究されてきたテーマであり、この世界は一種のイデアであり死によって本来あるべき形をとるというテーマは各宗教によっても説かれてきたところではあるだろう。慎重なスタンスで各エピソードや研究成果を紹介する立場には好感がもてる。また、巻末のキューブラー・ロスのインタビュー記事は一種のスクープともいえないだろうか。二酸化炭素が増加すると幻覚症状が増えるという実験結果も面白い。
 さてキューブラー・ロスの「死の瞬間」というのは必読の名著とされているが、この中で描写されている死の宣告をうけたときの人間の感情は「否認」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」といった5段階をへるとされる。だいたいの人間に起きる事象はこの5段階ではあるが、現在の物質生活や情報化社会を読み解く上でも結構立花氏の評論スタイルは参考になる部分が多い。特に脳内に関する電気回路と科学装置の解説は非常にわかりやすい。

アメリカ式論文の書き方  

著者名;ロン・フライ 発行年(西暦);1994 出版社;東京図書
 情報収集・引用文献の注釈など論文もしくはレポートの書き方についての概説本。アメリカ人の学生を対象にしたであろう著述と、パソコン機器の応用技術などがあまりない点が残念か。図書館の活用方法やカードを中心とした分類が中心なのがいまひとつ。カードの束をもって図書館に行くというのはかなり古い方法だと思うがパソコンの持込が不可とされている図書館は残念ながら多いので、そうした図書館でカードをメモ代わりにするケースには応用が可能かもしれない。不必要になったカードは捨てて有用なカードはパソコンに打ち込むという手間が必要になる。また自分が研究対象とするテーマについての既存の論文検索などは確かに重要な手間になるが、学者ならいざしらずそうでなければある程度の手抜きも許されるのではなかろうか。これはアメリカと日本の違いはあるのかもしれない。自分の考えを情報カードにまとめるというのは確かに重要でこれはパソコンでは代替は不可能。アイデアを視覚的に分類してよりわけるというのは、やはり広いテーブルでカードでやるのが一番確かだとはいえると思う。

臨死体験(下)

著者名;立花隆 発行年(西暦);1994  出版社;文藝春秋
 やはり一種の脳内現象として理解するほうが妥当という結論に傾く。しかもこの本を読むと他のオカルト現象も錯覚や脳内物質などである程度説明が可能になるというメリットつき。「生きている間は生きることについて思い悩むべき」という筆者の主張はもっともだ。
 374ページの大脳辺縁系の図が面白い。人間の頭脳を立体にして斜めからみて図解しているのだがこうした図解は他の本にはなく、非常にわかりやすい。扁桃核や海馬の位置関係もスッキリ理解できる。動物の生命本能の機能や感情機能など重要な機能をイメージとして理解するのには非常によい。また感覚遮断などで無意識層が引き出されジョルジュ・サンドなど種々の芸術家が無意識層を引き出して創造性の開発に利用していたことなども紹介される。こうした脳の現象についての解説をみると人間の脳といいうのは不可思議なとんでもない奥行きをもった装置だと思う。

医者の言葉がよくわかる本

著者名;米山公啓 発行年(西暦);1996 出版社;講談社ブルーバックス
 患者の方で勝手に「脳貧血を起こしてしまってね」などと症状に勝手に病名を付けてしまうと医者の診断にも影響がでるケースがあるなど、なるべく客観的に思い込みを排除して医療診察を受けることを提唱するとともに、医者自身に向けても患者を思いやるような言葉必要なことを暗に示している。
 特に大学病院などで担当の医者を変更するのはかなり大変であることと、外来と入院とではだいぶ状況が違うことなどシステムの解説を通じてよりよく医療サービスを受診するノウハウを解説。エンターテイメントとしても楽しめる素材がもりだくさんで、特に医療関係者の間で用いられている「スラング」の紹介が興味深い。

男の肖像

著者名 ;塩野七生 発行年(西暦);1992  出版社;文藝春秋
 ローマ帝国の民主主義的指導者ペリクレス、アレキサンダー大王、カエサル、北条時宗、織田信長、西郷隆盛、ナポレオン、フランツ・ヨゼフ1世、毛沢東、チャーチルといった歴史上の人物の肖像とともに塩野氏流儀の歴史エピソードをはめこんだ書籍。どうしても辛らつな批評が続くが、それでも時代を率いた男たちの肖像から、その後の現在に至るまでの歴史的影響などに思いが及ぶ。動機は確かに今からではそれほど鮮明ではないけれど、おそらくは「生きた証拠」を文字に刻んだいくつかの人生をこの本から読み取ることができる。そしてオクタビアヌスとアグリッパの奇妙な政治と軍事の分担業務なども含めて周辺の人々の人間関係や子孫についても話が及ぶケースも。
 歴史は人間が作るもので、しかもこうした本で過去に死んだ人間が再び蘇る。昔をとおして今をみるというのはこういう地道な作業のことをいうのかもしれない。

完全無敵の老人学

著者名;和田秀樹・大月隆寛 発行年(西暦);2001  出版社;講談社
 「はみ出し者」という老人概念よりは老人こそが主役でとことん粘って社会とコミットしようという趣旨に受け止めた。消費にせよなんにせよ大人としての消費行動を示すという点ではある程度たくわえがある老人のほうがおそらくは社会に対しも有用な消費生活がおくれるだろうし。しかし最も重要なのは、「諦めないこと」という著者二人のエールのようにも思える…。もっとも私にはやや縁遠い話のようにも思えたわけだが…。

世間を読み、人間を読む

著者名;阿部謹也 発行年(西暦);2001 出版社;日本経済新聞
 ドイツ中世の研究者による学問と「世間」についての論述。「個人」というものの現れ方がヨーロッパの地域において異なるとか、修道院がもつ「禁欲の精神」の流布や音楽の記譜法の伝播など種々の考察がされている。タイトルのもつ「意味」は非常に難しい。知識と主体の変化ということなのかもしれないが今の自分にはよく理解はできない。そして知識が人間を変えるなどとは実は信じていないからかもしれない。知識はあくまで知識であって、人間が変われば知識のあり方も変わる。その程度の認識しかないのだが。
 作者がいない文学作品「アイスランドサガ」のくだりが面白い。「物語」を否定しようとする流れの中で人間の集合体がいくつもの物語を(しかも構造的にはほぼ同じものであろう物語を)うむがそれがまた後世に伝えられていく。ウェブというものも現在の「アイスランド・サガ」かもしれないなどとも思ったり。

サプライチェーン経営入門

著者名;藤野直明 発行年;1999  出版社; 日本経済新聞
 企業の経営システムを考えるのは楽しい。だれしも合理的であろうとして最後にはほとんどの人間が経済環境の変化にたえきれずにシステムの変化もしくは再構築を余儀なくされる。サプライチェーンは自分なりの理解でいうと分業制の中に情報システムをもちこんで企業全体で物流や情報の「風通し」をよくしようとする運動だと思われる。案外こうした情報の流れをスムースにするということが難しい。それまでの部門制度からこうした全体をみる視点は大事だが、市場が国際規模になってくると情報システムも万能ではなかろう。さらに価値連鎖といった概念や消費者行動の研究もけっしてスムースに流れて、従業員が全員理解できるという類のものでもない。トータルにはサプライチェーンかもしれないが、情報端末の向こう側ではとんでもないアナクロな経営議論がかわされるということも実際ありうるのではないかとも考える。
 たとえば小売商からの情報をメーカーがすべて的確に、しかもスピーディに認識できたとしてもその情報だけをもとに生産計画を修正するという企業行動ははたしてとれるものだろうか。なにかしらの在庫品引き取り条項などの別の法的システムの支援がなければ増産したリスクというものも考慮せざるをえないであろうし。これから多様性の時代が始まる。小売商などの販売側は商品の多様化、メーカーは商品種類の抑制といった二つの異なる「願望」をいだきつつ、サプライチェーンとして一つのシステムに同居するのであれば、さらにまた新たな別のシステムを多段的に導入しなければならない。案外アナログなコミュニケーション世界がさらに浸透したりして。

2007年11月23日金曜日

死の民俗学

著者名 ;山折哲雄 発行年(西暦);1990 出版社;岩波書店  
 比較検討をする…といった場合、入学式・卒業式・結婚式など種々のお祝い事は多数あれど、葬式の比較検討ほど実は興味深いものはない。似たような黒一色でありながらそれでも故人をしのぶときに微妙な差異がかいまみえたりする。もちろん「ご不幸」なので楽しいというわけではないが、そうした微妙な差異に逆に人間らしさをかいまみたりもするのだが。遺骨や遺灰などの感覚がインド・日本・アメリカでぜんぜん異なることから始まり、沖縄の「遺骨を洗う風習」に対する柳田国男の「祖先との交流」という視点や折口信夫の「遺骨の処理は魂の復活を防止するため」など種々の学説が紹介される。生きる人間と死者を隔てる壁があり、こちらからは向こう側はみえない。ただ向こう側へ送り出すだけだ。この数千年にわたり日本民族がいかにして死者を送り出してきたかを研究することで逆に現代の日本の世相がうかびあがるという仕組みになっている本。そしてギリシアのアクロポリスとネクロポリスの幾何学的な都市構造は今の日本にもそのまま輸入されつつあることにきづく。都市国家の中心はアクアポリスだったが、城壁の外には共同墓地や埋葬地が区画整理されていたのだ。(エジプト人はナイル川を挟んで都市の領域と死者の領域を区画していたが、ナイル川は氾濫していたわけでナイル川の都市構造は日本にはあまり影響が感じられないという感想をいだく)。日本の古墳が王権の偉大さをしめすメルクマールとなり死と生を区分けする役割をはたしたであろうことも著者は指摘する。そして話は王権の伝授にまで及び遺骨という物理的な話から日本文化の中枢へとテーマがうつるという仕掛け。著者のページの後ろにかくした意図はともかく1冊の本として実に見事だと思う。

誰か故郷を想はざる  

著者名;寺山修司 発行年(西暦);1973 出版社;角川書店
 この場合の故郷というのは明らかに高度経済成長期の、しかも青森県から東京都まで数時間を要したころの話になるのだろう。今で言う故郷とは多分、指し示す内容がぜんぜん違うと思う。東北新幹線もないわけで。
 本当かどうかもまったくわからない静けさと故郷に対する思いつらみ。そして将来に対する漠然とした不安のようなものが書籍の中から伝わってくる。そしてまた政治的な発現も多少はあるのだが、それがほとんど個人の内面に向かうという印象を受ける。「コンピューターはロマネスクを狙撃する工学である」とした寺山は今のこの世に生きていたらなんていうのだろうか。当時「書を捨てよ、町へ出よ」といった寺山であればおのずとその発言の内容も想像できなくはない。本質的な問いというもののあり方そのものがまた変容してしまった今でも、寺山が読まれているというのは、時代と個人、場所と心の故郷といったテーマが不変のテーマであるからかもしれない。騒乱の中の静けさや真実の中の虚構といった錯綜した世界観は結局、人間が生きていくうえで必要な虚構という印象もうける。
「いかにも新しい時というものは 何はともあれ、厳しいものだ」(アルチュール・ランボー)

日本社会と天皇制

著者名 ;網野善彦 発行年(西暦);1988 出版社;岩波書店
 日本の伝統文化とか島国とか表現をする場合、どうしても前提にしがちなのが、縄文時代から日本は単独で現在の国境に準した範囲内で民族意識を固めていった…というような過ちである。実際には西日本文化圏内と東日本文化圏内に大別でき、西日本文化圏の基盤が弥生時代、東日本文化圏内が縄文時代でその文化が同じ時間軸に並ぶには約200年のタイムラグがあったとされる。また北海道南部と東北北部に存在したアイヌ文化圏や沖縄の琉球王国文化圏、さらに西日本と朝鮮半島を同じ文化圏でくくることも可能というダイナミックな歴史を紹介され、どうしても歴史認識という場合にそもそも地理的前提を最初からうのみにしている素人の度肝をぬいてくれる。ただ済州島をはじめとする日本と朝鮮半島のかかわりについては昔から興味があったうえ、日本語とハングルの奇妙な近接についてもかねてから好奇心をもっていたのでさほどの違和感がなく読み進めることができる。
 そして本題は南北王朝に入るがこの時期の奇妙さは日本の皇族が南朝と北朝に分離し、さらには南朝が吉野を中心として独特のエネルギーと威信をほこっていたということだろう。何が正当かを決定するときに、正当性を血族に求める場合、後醍醐天皇というある種日本文化の転換時代を演出した異色の王権を忘れることはできない。著者は当時の後醍醐天皇が独特の社会勢力を動因しエネルギーにあふれる社会変革を志した歴史的証拠で実証し、後醍醐天皇がよりどころとしていた信仰や曼荼羅も紹介する。そして平安時代、鎌倉時代そして室町時代と続いていった一連の時代の中で南北王朝がはたした役割を考察し、被差別部落についての認識が南北王朝以後、江戸時代にいたるまでに変質していったプロセスを考察する。また白拍子といわれる白拍子舞を踊る遊女が平安時代には神社などにも系列をもつ社会的地位が高い存在だったのが南北朝時代以後変質していった原因も明らかにする。「平家物語」などに紹介される白拍子は「男舞」などとよばれていたようだが、けっして今考えるような存在ではない。
 ただこうした考察は21世紀の日本人にとっては確かに信じられないような世界観ではある。だがしかし、過去の歴史や文化遺産をさらに深く読み込んで浅薄な民族意識ではなく、人間がもつもっとドロドロした深い深層を含めて民族というものを考えていかないとこれからの国際社会では清廉潔白で優秀な大和民族といった単純な民族観では諸外国の逆に軽蔑を受けることになるのだろう。静かに、そして深く、ときにはドロドロした深いところから高みをめざすといった気概がある人で歴史に興味がある人には絶対に面白い本であるに違いない。

「欲望」と資本主義  

著者名;佐伯啓思  発行年(西暦);1993 出版社;講談社現代新書
 社会主義と資本主義を比較して社会主義にかけていた「消費者」という概念を重視する。そして消費者の欲望を察知するマーケティングがいかに資本主義では重要になったかを明らかにしていくわけだが、この場合のマーケティングが所与の「欲望」というよりも場合によってははじめからは存在していなかったはずの「欲望」まで創造してしまうことすら指摘されている。社会主義にはそうした消費者に関する概念や情報がない上に「労働者」の動機付けももたせにくいというシステムがあったわけだが…。中世末期からの地中海貿易、14~15世紀のドゥカート金貨をシンボルとするベネチア共和国の繁栄、そして16世紀以降に資本主義の世界システムが構築されかかるという通説の歴史を外部への欲望の拡張として筆者はとらえる。そして16世紀~18世紀に始まるヨーロッパの消費生活の拡大と生活様式の変化(イギリスの海外製品への需要拡大)の影にはジョン・ロックが指摘する「虚栄心」がある。流行は貴族やジェントリが先取りしてそれをスノッブである新興ジェントリが真似してさらに多少裕福な市民階級へのトリクルダウン方式で社会に拡大する。これもまた欲望の拡大と浸透だろう。そして1720年以後の産業革命の到来。この時期の商業活動は地理的条件や消費者の差異を発見してそこに新たな需要(欲望)を発見してさらに利益をあげる。こうした欲望の拡大に貢献したのが資金〈銀〉であるが、ゾンバルトの「資本主義の精神の中には得体の知れない劣等感、怨念、ルサンチマンのようなものがひそむ」という性質も筆者は指摘する。(ルアンチマンはニーチェに依拠する。貴族的生活などへの小市民がいだくうらみつらみといったものか。ニーチェはそうした市民の生活にルダンチマンを見出した)。おそらくゾンバルトのこうした指摘するドロドロの部分も筆者の用いる「欲望」という言葉の中に内包されるのだろう。こうした欲望のフロンティアは19世紀まで外にむかってかぎりなく膨張していく。そして20世紀資本主義が幕をあけて、アメリカ資本主義がイメージとしての資本主義をうちたてていく。20世紀の資本主義とはつまり、大衆消費者というフロンティアだと筆者は指摘し、そのシンボルが自動車であるともした。そしてここに19世紀資本主義の精神であるプロテスタンティズムとは異なる意識~人生を神から与えられた試練の時間としてとらえるのではなく~せつな的な快楽主義(コンサマトリズム)だった。そしてここにフランク・ナイトが指摘するようなゲーム性のある市場「公正なルールの下でおこなわれたゲームの結果についてはだれも文句はいえない。公正な市場経済に要求される倫理はただひとつ、もしゲームに敗れても泣き言はいわず静かにさっていくことだけ」という完全市場主義的な倫理の世界がくる。アメリカではこうした市場主義の理念と移民によって触発されたデモクラシーの理念とが一体となる。デザインもまた無駄を排した合理的なモダニズムなデザインの商品が登場して欲望を刺激する。そうした商品イメージは大衆の欲望を刺激する。資本主義は人間の欲望をエネルギーとして、人々は相互の視線を感じつつ強迫観念や不安感を欲望に転化する回路を作り出していくというわけだ。モノによってしか自分をアイデンティファイできない社会と筆者は総括する。そして最後は自分自身を欲望の対象とする自己愛的な欲望の時代になる。消費者のナルシズムを刺激する商品こそが最大の売上をあげる商品ということになるわけだが、そこで情報化社会を考えてみるとこれは資本主義を最大限におしあげる自己愛的な商品装置ということになるのかもしれない。近世から産業革命にいたる時期が異文化や外国に対する好奇心が欲望をたきつけたとすると21世紀はナルシズムの時代からさらに情報によって自己の内面のフロンティアをさらに拡大していこうという資本主義かもしれないという連想がわく。技術的な制約と欲望のフロンティアの乖離を筆者はしてきするわけだが、その判断はちょっと早すぎたのかもしれない。1995年以後、新たなフロンティアが目の前に出現したと思われる。それはおそらくアナログのこの世界をデジタルで再生したいという人類創世記の言い伝え、物語の普遍的な保存という神にもにた行為への「欲望」ではないか。

ハプスブルグ愛の物語

著者名;江村 洋 発行年(西暦);1999 出版社;東洋書林
 ルドルフ1世がドイツ王に選定された1237年からサラエボ事件発生の1914年にわたり約650年間にわたり中欧を支配(あるいはヨーロッパ全土を支配)したハプスブルグ家。その中でも特定のカップルに焦点をあわせた歴史書籍。マクシミリアン1世の子フィリップ美公とスペイン王女ファナの結婚はハプスブルグにスペイン王国をもたらす。だいたいこのファナについてはいろいろ「奇行」が伝えらられているが、この本では精神にやや変調をきたしたのはフィリップが死んでからというスタンスをとる。
 第2章ではこのフィリップとファナの息子カール5世とイザベラ・フォン・ポルトガルをとりあげる。このカール5世がハプスブルグを世界の頂点へのいざなうが、この人はマクシミリアン1世の孫。宗教問題の解決など弟フェルディナントと解決にあたるが、この本ではそうした歴史の話ではなく堅物といわれたこのカール5世がレーゲンスブルグで22歳のバルバラと知り合ったことに力点がおかれる。ただこのカール5世は当時の資料でも相当に生活習慣病をやんでいたらしく通風、糖尿病、腎結石などをわずらいその死に様は「食い死」と表現されている。その後バルバラはカール5世の子どもと「いわれる」ジャロニモを出産。カール5世のあとをついだフィリップ2世の時代にこの「私生児」ジェロニモは一応フィリップ2世に「認知」されるが、名前をドン・ファン・ダウストリアとし、特に軍事面で才能を発揮させる。スペインが失ったネーデルランドを取り戻す任務など相当重要な仕事も請け負ったようだ。しかしチフスで死亡するわけだが、この第2章は本来はカール5世の話のようなのに実はその私生児ジェロニモのほうが重視されているという不可思議さ。
 そして時代は一気にくだり、マリア・テレジアの息子ヨーゼフ2世とイザベラ・フォン・パルマというルイ15世の孫の結婚にうつる。7年戦争の最中に結婚式がおこなわれ、潔癖なイザベラと「ややいろいろすき物」のヨーゼフ2世の生活ぶりが描写されている。そして第4章ではフランツ・ヨーゼフとかのエリザベートでこれはかなり有名な話ではあるがその章では、フランツ・ヨーゼフがひそかに交際していたカタリーナ・シュラットとエリザベート、ヨーゼフの三角関係に焦点があう。さらにその息子ルドルフとベルギーのシュテファニーの結婚だがなんとこの本でルドルフが性病に罹患しておりシュテファニーも感染したことなどが著述。そしてその最中に17歳のマリー・ヴェッツアラと知り合い、ルドルフが離婚を要請する話を紹介する。しかしカソリックの影響が強い状態で離婚は認められず、ルドルフはマリーを銃撃してさらに自殺してしまうわけだが、イラストや写真も含めてイメージが膨らむ章になっている。そして最後の章はフランツ・フェルディナントとゾフィー・ホテク。ハンガリー人に対して警戒心をいだき、スラブ人との共生をめざすフェルディナンド皇太子はベルギーの女官ゾフィー・ホテクと結婚する(当時32歳)。1914年6月にサラエボの軍事演習に二人は参加するが、王朝打倒をめざす勢力がかなり過激になっていたが、その最中にギムナジウムの学生ガブリロ・プリンシープのたまたま撃った銃で射殺される。650年の王朝がいきもたえだえとなる様子を伝えるエピソードではあるが、特に愛人関係や夫婦関係などにややもすれば過激とも思える描写をはさみ、記述したのがこの本で、個人的には非常に面白く読んだ。なんていってもゴシップというのは人間にはどうしてもついてまわるが、しかもこれはヨーロッパでもなにしおう名家の650年の歴史の中でのエピソード。タイトルがやや扇情的ではあるものの読んでけっして退屈することはないと思う。

だから「書類は一枚」がうまくいく!

著者名 ;矢蚓晴一郎 発行年(西暦);2004 出版社;成美堂出版    
 とかくぶあつくなりがちな書類をなるべくコンパクトにして1枚の方がいいのではないか…という本である。う~ん。こればかりはケース・バイ・ケースではなかろうか。ある程度共通に知識が共有されている場合には確かに図式化などをかなり丁寧にして1枚にしたほうがコミュニケーションが促進されるケースもあるかもしれないが、会議によっては共通知識がほとんどない場合もある。また報告書などでも図式化をするとかえって細かい知識や状況説明がなおざりにされる場合もある。プレゼンテーションなどで補足できる場合にはまだフォローがきくこともあるかもしれないが、それも不可能な場合には書類がある程度量的にかさむのはやむをえないのかもしれない。
 ただ分析や評価といった手順をふまえて書類を作成しようというのは、正しいと思う。要は無駄なアウトプットはしないほうがいいのではないか、かえって誤解を促進することもあるのではないかという主張なのだろう。

だから「書類は一枚」がうまくいく!

著者名 ;矢蚓晴一郎 発行年(西暦);2004 出版社;成美堂出版    
 とかくぶあつくなりがちな書類をなるべくコンパクトにして1枚の方がいいのではないか…という本である。う~ん。こればかりはケース・バイ・ケースではなかろうか。ある程度共通に知識が共有されている場合には確かに図式化などをかなり丁寧にして1枚にしたほうがコミュニケーションが促進されるケースもあるかもしれないが、会議によっては共通知識がほとんどない場合もある。また報告書などでも図式化をするとかえって細かい知識や状況説明がなおざりにされる場合もある。プレゼンテーションなどで補足できる場合にはまだフォローがきくこともあるかもしれないが、それも不可能な場合には書類がある程度量的にかさむのはやむをえないのかもしれない。
 ただ分析や評価といった手順をふまえて書類を作成しようというのは、正しいと思う。要は無駄なアウトプットはしないほうがいいのではないか、かえって誤解を促進することもあるのではないかという主張なのだろう。

あなたは会社を棄てられるか

著者名;サラリーマン再生委員会 発行年(西暦);1999 出版社;NHK出版
 企業倫理とか社会的責任とかいった風潮(あるいはブーム?)はおそらく山一證券の倒産あたりからある程度真面目に考えられるようになったのではないか、企業中堅の管理職がある程度の発言権を得始めたのもおそらく21世紀の初頭からだが、この本では会社と個人の関係を真摯に分析している。
 ただ現実的には、理想論ではないかといった疑問もありえなくはない。出世主義の限界(いずれは権勢も限界を迎える)を指摘しつつも、ある程度規模の大きい仕事をこなそうとする場合には肩書きが必要な場面も多い。また社内評価をある程度企業外部が参考にするケースもあるだろう。会社人間をやめようという提言はそれなりに説得力があるが会社をやめて生きていける人間など実はそうはいない。そもそもそうした実力をもつ人であれば転職などの道ではなく個人開業をめざすはずだからだ。そして個人開業をする人の多くは社内でもそれなりに活躍していた人だったりする。
 「気に入らぬ風もあろうに柳かな」というある鉄道会社で左遷された人の文句が209ページに引用されていたが、おそらくはそうした環境の変化ではない自分個人のマネジメント力をつけようというところに「正しい論点」があるのだろうと思う。「地道な努力を積み重ねていくと、意外なところから、思いもかけぬ支援者が現れ、大いに意を強くしたものだ」という感慨は長い経験則から導き出された言葉だけに重みがある。やはり一定の年月を一つの場所で蓄積してきた人の重みを考えると会社を簡単に棄てたり拾ったりするものではないというのが日本人的な考えだし、そしてそれはそれなりに尊重すべきことなのだろう。少なくとも明治時代以後、日本人に根強くあるお家大事といった風潮はどれだけ情報化が進んでもそれほど日本人内部あるいは相互関係では変化しないと思う。こうした本と現実を比較してみてマスコミや書籍の内容をいかに咀嚼して自分にとりいれていくのかがむしろ大事になってきたように思う。批判的に受け止めるにはすごくいい本だ。そして著者の挑戦にも感服することはいうまでもない(著者は現役の企業ミドルたちで実名も巻末には表示されている。一種の英断だろう)。

サラリーマン一日一話  

著者名;吉田紹欽  発行年(西暦);1996 出版社;徳間書店
 かなりの「奇書」といっていいだろう。タイトルからは想像しにくいが内容はなんと江戸時代の「心学道話」。いわゆる心学で商業の心得みたいなものを寓話に託すという構図。庶民の教育に役に立たせたような話が多いが、その中でも特に商家に影響をあたえたもののようだ。石田梅岩ではなく柴田鳩翁という人に主によっている。
 江戸の心学中沢道二の影響もあるようだが、商品を売らずに「心」を売るといった今ではやや信じがたいような話の連続だが確かに得体の知れない説教よりも何かを話して、そこから教訓をよみとらせるほうが庶民には受け入れやすかったのかもしれない。ただしあまりにも説教臭い話が続くので今では…ということのようだ。「磨けば光る人間の心の鏡」とかそうした話が続き、やや読んでいて苦しくなる部分もあるが珍しい本ではあると思う。「あひみての のちの心にくらぶれば むかしはものをおもはざりけり」といった和歌が奇妙に心に残る。まあ、何かあったときのその後の心を考えれば、今からあまり後悔するようなことはしないほうがよい…といった意味にも解釈できるがもとは中納言敦忠の恋の歌。逆に考えると人間てやはりどうしても愚かしくても悪いことをつしてしまうのかも…とも思えるが、こういう話をわざわざ読もうというあたり、自分もけっこう古い体質でしかもなにかとセコセコ蓄積していけばなんとかなるかも、などと考える部分があるような…。

国際金融の現場

著者名;榊原英資 発行年(西暦);1997 出版社;PHP研究所  
 国際金融がタイのバーツ通貨危機でゆれていた頃の秘話ともいえるかもしれない。タイの通貨危機が次第に日本や中国にも波及しそうになり、緊急経済対策がおこなわれると同時にアメリカやヨーロッパも対応を迫られるという国際金融時代のふさわしい事件のまえぶれだった。当時はソロスなど個人的なところに原因が求められたりもしたが、榊原は金融のグローバル化は情報のグローバル化の一つとして位置づけ、資本主義が市場経済化を推し進めれば、こうした不安定性にまきこまれることは不可避であったとする。なんらの数値の裏づけもないわけだが、こうした「仮定」もあるという一つの「文化論を国際金融というテーマにそって展開していると思えば実に納得しやすい。
 当時の日本経済は改正外為法が施行。銀行や証券の自由化が提唱されつつもまた都市銀行が19あった時代で東京三菱銀行やUFJ銀行すら登場せず、しかも再びこの2つのメガバンクが合併する時代がくるとは到底予測しえなかった時代だ。そうした時代にすでに「情報開国」として日本が一方的に「単純なアメリカ観」を導入するだけでなく、多元的なアメリカ市場を客観的に認識しつつ、日本の現状も多元的に発信すべきとしているのはやはり「切れ者」といわれたこの人だからこそできたことだろう。
 また情報化についてバーチャライゼーションのリスクも指摘されている。情報化はある意味で仮想空間を構築できるほどの力をもっている。ゆがめれた情報が大量に発信されることで抽象的な議論が現実に、逆に聖書やコーランなどのようにマクロ経済学の教科書に忠実な原理主義の到来を予測しているとも考えられる。そこに榊原がもってくるのはフランシス・トクヤマの「信頼」という抽象的概念であり、文化的・歴史的過去を分析しないマクロ経済学を現実の市場に持ち込むことへのリスクを訴えている(と私は思った)。この「信頼」は「信用」という金融の言葉に転化され、金融ビッグバンと「信頼」という文化的で緻密な議論に展開するわけだが。
 文化というものはだいたいがローカルなものであり、そうした中で情報や金融制度が均質化していくことへの警鐘もあると思う。アジアとしてのネットワークの形成や改革ということを重視して現実に存在する「良い部分」まで破壊することをなるべくなくそうという趣旨にもみえる。そうした意味では確かに筆者は「新保守主義」なのだが、明治時代以後に飛躍的な経済成長を遂げた日本が「鎖国」の中ですでに「勤勉な蓄積」をつみあげていたことを無理に排除すべきではない。おそらくは一部の「過激な愛国者」のいうように自虐的な歴史は考え物で(とはいっても自己礼賛も危険なことはいうまでもない)、できうるかぎり原状を的確に把握する努力は放棄すべきではない。その上で戦略的な行動の一番有利なものは情報であり、そして自らの強さを正当に評価して戦略的に物事を考えるという思考方法をとるべきと筆者は提唱しているように個人的には思える。国際金融は別に競争の場所とは限らないが、少なくともあまりに不安定な通貨の動きは国内経済にも深刻な影響を与える。単純な通貨予測とか経済分析とかいうことではなく歴史的あるいは文化的な分析も含めて国際金融を論じて、さらに今後100年のアジアをみすえている筆者の壮大なビジョンは偏狭なナショナリズムを越えた「インターナショナリスティック(?)な金融論」ではないかとすら思える。

小さいことにくよくよするな!3

著者名;リチャード・カールソン 発行年(西暦);2000 出版社;サンマーク出版
 往年のベストセラーの第3弾。でも実は一番最初の本は読まずにいきなり第3弾から読みはじめる。ビジネスは計画ー実行ー統制といったサイクルで動いているので、どうしても「計画」の部分を重視しがちではある。ただしそれが「最悪」のような「仮想世界」になった場合に日常生活は非常に息苦しくはなる。ある程度気長に流して、「小さなくよくよ」をさらりの流して、人間の「エゴ」(目立ちたい、特別な存在でありたい)といったものを抑制して生活を楽しもうという趣旨になる。自分自身をいつも中心に考えるという性癖はこれは人間だから誰しも存在するしょうがない点だが、だがしかし、自分は大多数の中の一人とわりきって行動すればずいぶん楽になることも確かに多い。またビジネスがどうしても貨幣換算価値を重視するため日常生活もそうしがちではあるが、大事な人と過ごす時間が貨幣に換算できないのはいうまでもない。小さな思い込みを排除してもっとのびやかに生きようという一種の「スキル」を紹介した本ということだろうか。売れた本だがそれなりに売れるだけの内容はあると思う。

2007年11月21日水曜日

やんごとない姫君たちの秘め事

著者名;桐生操 発行年(西暦);1998 出版社;角川書店  
 主に歴史上の人物の「下半身」ネタあるいは恋愛話を特集。エピソードがずらっとならんでいるわけだが、明らかに「笑い話」とか「シモネタオチ」のコントとかも混在してたりして…。まあ、下半身と上半身とではいろいろ区別して語られてたほうがいい場面もあるわけだが、種々のエピソードをこれだけ集めるとやや圧巻でもある。
 特にルイ15世とかアンリ2世とかブルボン王朝関係の話は面白い。ルイ15世の摂政オルレアン公フィリップの100人を超える愛人、シャンパンを娼婦の顔にかける貴族(シャンパンの歴史と娼婦の歴史はオーバーラップしているそうだ。マキシム・ド・パリが高級娼婦が集う場所でそこではシャンパンを注文すればOKのサインだったとか)、アンリ2世より20歳年上の恋人ディアヌ・ド・ポワチエ(65ページに挿絵が印刷されているが確かに美人)、ルイ14世とエリザベス1世のカツラ好きのエピソード、ナポレオンの皇后ジョセフィーヌの靴下好き、そしてルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人。この二人は、フランス版ハーレムを形成して、夫人自身は不感症だったため街で娘をかどかわしてはルイ15世のいる「鹿の苑」に連れてこられ、その人数は合計で200人から300人、私生児の数は60人以上とか。さらにルイ15世はポーランドの王女マリア・レクスンチカと結婚して10人の子どもをもうけ(この間にはポーランド王位継承紛争、オーストリア継承戦争、7年戦争と戦争続きでさらに植民地であるカナダとインドを失いフランスの財政はガタガタになるが)、しかも「巨乳好き」とかまで紹介されている。またやはりすき物のアンリ4世と60人近い愛人、そして王妃マルゴ。さらにマリア・テレジアが出した純潔規定も非常に楽しい内容でなにせ「独身の男女が一回以上関係をもったとき」には売春行為とみなされたそうだが、このため堕胎や子殺しがかえって増加したとか。ただそのハプスブルグ家にも梅毒の家系だった可能性が示唆されており、ハプスブルグ家の早死の傾向とその数の少なさなどが例示されている。特にその鼻の形に先天性梅毒の傾向が指摘されており、マリア・テレジアの父親カール6世やレオポルト1世に特徴が特にみられるとか。
 またユダヤ人の風習「割礼」についてミケランジェロのダビデが例示される。もともと割礼は古代エジプトでうまれたものがユダヤ人に伝わったものだそうだが、ギリシア時代にはギリシア人が割礼を好まなかったのでユダヤ人は割礼を隠すようになっていたらしい。そのためかどうかは知らないがミケランジェロは包皮がかぶっており、本来ユダヤ人であればそうではないはずだがあえてミケランジェロはギリシア風にダビデ像を彫刻したのかもしれない。
 最初はこうしたエピソードの羅列は辛いと思ったがこうして印象に残るものをまとめてみると結構楽しんで読めたようだ気がする。特にるい15世は面白いがこのブルボン王朝というのはすごい王朝だったのだなあなどともあらためて思う。

週末にできるパソコン入門

著者名;山田祥平 発行年(西暦);2001 出版社;日本経済新聞社
 だいぶ前に購入した本だが、あらためて読んで見るとほとんどのことは自然にできるようになっている。とはいえまだ入力がよくわかっていないところがあるがこうしたところはこれからの課題なのだろう。案外知らないうちにローマ字入力がカナ入力になっていることがあたのだが、それもaltキーとカナキーを同時に押すことで解決できることと、入力結果を全角英数字にするにはFキーをいせばいいなどというチップスを学ぶ。こうした小技が案外忙しいときには案外効果的だったりするときもあるのでバカにはならない。ただしパソコン関係の書籍は書店で並んでいる新刊をなるべく早く読み終わってなるべく早く実践に移すことが重要だということを認識。

24時間の使い方

著者名;桑名一央 発行年(西暦);1988 出版社;三笠書房
 時間術とか時間管理方法とかいろいろあるけれども、本当のところ目に見えて役に立つという本は少ない。時間は確かに人間には平等に与えられてはいるが、それでも形式的には平等であっても実質的には不平等だからかもしれない。ただ通勤の時間をなるべく生産的に利用するというのはやはり妥当な方法なのだろう。朝早くから「遅刻するかもしれない」とあわただしくしているよりかは、ある程度早めにおきて、やるべきことをしてから電車に乗ったほうが確かに一日は効率的ではある。
 この本である程度なるほどと思ったのは仕事の組織化。職務をなるべくシステム化して、業務内容を細かく分類してさらにそれを単純にする方法を考えるというもの。さらになるべく机の周りや資料を整理してすべてをシンプルにしていくという方法でアナログの場合だとどうしても整理そのものに相当な時間を有するがパソコンがあればわりと職務もシステム化しやすい上に、机の周りや資料なども規格化しやすいとは思う。ある程度時間を活用するには日常生活を複雑にるよりシンプルにしていくのが一番だといえるのかもしれない。

人脈を広げる55の鉄則

著者名;下村澄  発行年(西暦);1988 出版社;PHP研究所
 「人脈」というのはどうも多ければ多いほどいいというものではないらしい。友人が多い人というのもそれはそれで結構だが、少なくても密度が濃い人間関係であれば十分。別にコンパをするわけではないのだがら、それほど「数」にこだわる必要はないだろう。ただし仕事で初対面の人にはなるべく「固有名詞」で話しかけて、印象付けるとか、中元やお歳暮のような形式的なプレゼントではない贈り物をするとか、仕事では「後から聴いてくる布石をうつ」(囲碁のような)などアイデアとして仕事を進めやすくする方法という意味では役に立つ。「妙手をうったから勝つのではない。悪手を打ってまけるのである」(藤沢秀行)という言葉の引用が印象的。さらに御礼やお詫びなどはやはりなるべく早くするといった一種の「社会常識」について確認する。やはり御礼を言わない人というのもこの世には厳然と存在しているし、その一方でちゃんと御礼をいう人も多数いる。こうしたスピードでなんらかの意思表示をすることは大事だということは再確認。

 この手の本はおそらくもう大人になったら、誰も注意はしてくれないという厳しい現実があるため、簡単なことでも自分でチェックすることが重要だということを示しているようだ。ある意味、注意されているうちがまだ幸せなのかもしれない。

ハリウッド噂の真相  

著者名 ;コーラル・アメンデ 発行年(西暦);1998 出版社;日本文芸社
 ハリウッドの俳優たちの発言内容やゴシップを1冊にまとめたもの。特殊な図鑑ともいえなくはないし、面白い写真もないではないが、深みがないのでつまらない。「スターによる文学論」とかスターの整形手術とかそうした特集もあってもかまわないが、別に整形手術したって役者だから当然だろうとか思えば別にどうでもいい内容であったりする気もする。政治家と俳優はともに似たような職業である程度露出して、かなりの部分私生活も商品として売るぐらいの覚悟がなければ暮らして行けない職業だ。こういう本に書かれるのもやむをえないことなのだろうが…。
 ただハリウッドの出演料金データは割りと興味深い。どの俳優がどの程度のランキングなのかすぐわかる。謎の宗教団体サイエントロジーのジョン・トラボルタ、トム・クルーズ、ミミ・ロジャース、アル・ジャロー、ジュリエット・ルイス、ケリー・プレストン…といった宗教活動目録もそれなりに楽しいとはいえるか。

夢の島で逢いましょう

著者名;山野一 発行年(西暦);2000 出版社;青林堂
 昔「ガロ」という漫画雑誌がカルト的な人気を誇っており、その中でも鬼畜系統の特殊漫画家あるいは変態エロ漫画家と位置づけられていた山野一の初期の作品を特集したもの。インド哲学の影響をはしばしに感じさせる時間軸も空間軸もはっきりしない作品ばかりで、農薬などを集中的にまいた結果特別変異をおこした囚人たちが突如暴れだすといった表題の作品などもあるが別に科学技術に対するアンチテーゼというわけでもない。なんとなくブランドだとか近代的な生活とかを極端なほどまでぶちこわすのが特徴で読んだ人によっては吐き気をもよおす人すらいるかもしれない。ただ今の生活がなんとなく「うわっつら」だけのような気分がする場合に山野一の本を読むとスッキリしたりもする。どのみち破壊されてもこの作品の中どまりといった妙な安心感すらわいてくるのだ。これって不可思議な現象だが無茶苦茶気持ち悪い作品でしかも日常生活のお約束をすべてぶちこわされるとかえってそこに回帰したくなるという妙なもので、それが小市民ってことかななどとも思ったり。

ルートヴィッヒ2世①②

著者名;氷栗優 発行年(西暦);2000  出版社;角川書店
 ワーグナーをこよなく愛して、オーストリア帝国とプロイセンとの間ではオーストリアにシンパシーをもちつつも最終的には統一ドイツに参入されていったバイエルン公国。その王であるルートビッヒ2世が実は単なる耽美主義者ではなく、優柔不断によって戦争による被害を回避するとともに、中世の美学を再構築しようとしていたのではないか…との想定のもとにワーグナーや従姉妹にあたるオーストリア皇后エリザベートなどを登場させてヒトラー登場前のワーグナリアンのいささか倒錯あるいは少女趣味的な世界を描く。面白いといえば面白いが視点はなんとなく、特定の女性からみたやや偏向したバイエルン貴族の描き方で、もう少し考えてみるとこういうメンタリティは明らかに日本の若い世代からみたバイエルン貴族ということであって、非常に戸惑うことは戸惑う。でも地理的・歴史的に複雑なこの時代をよく描いているなあとは思うが。
(バイエルン公国・王国)
 もともとはエルベ川上流に存在していたゲルマン民族が現在のドイツのバイエルン地域に集結。8世紀ごろ、フランク王国の支配下でバイエルン公国となり、12世紀以後フリードリッヒ1世からヴィッテルバッハ家がこの地域の「選定候」となる。漫画の中でよく引用されるヴィッテルバッハとは、フリードリッヒ1世から代々伝承される由緒ある家系ということだ。1789年にフランス革命が発生し、フランスで国民国家としての意識がめばえはじまるが、同時期の「ドイツ」地域は、約300の「領邦」に群雄割拠状態だった。いわゆる爵位をもった貴族が支配する領土もあれば司教が支配する領土、さらに選定候が支配する領土と支配主は支配階級の多種多様にわたるものであったらしい。こうした状況下で1792年にナポレオンがドイツ地域に侵入し、これら約300の領邦は約30に再編成・統合される。そしてそのさらに13年後バイエルン地域はナポレオンによって、バイエルン王国となり初代国王にマクシミリアン1世が任じられる。マクシミリアン1世→ルートヴィヒ1世→マクシミリアン2世→ルートヴィヒ2世という順序で国王の代替わりがなされるが、このルートヴィッヒ2世は相当なワグネリアンで、「ローエングリーン」の上演をみてから熱狂的なファンになるとともに幼少時代にはゲルマン人の神話や中世叙事詩に相当に大きな影響を受けたようだ。漫画の中でもオーストリアとプロイセンにはさまれて、微妙な外交をせまられるバイエルン王国の情勢が描写されているが、意識的にか無意識にか、ルートヴィッヒはノイシュヴァンシュタイン城やバイロイト祝祭劇場の建設に熱意を注ぐ。そしてその後ルートヴィッヒは幽閉され、シュトランベルグ城の湖畔で死体で発見される。第2巻では、プロイセンに「統合」され、一種の「王国内王国としてビスマルクの支配下にバイエルンが下る場面がでてくるが、この「王国内王国」としての運命も第一次世界大戦の敗戦時にルートヴィッヒ3世が退位することによって消滅する。

イギリス怖くて不思議な話

著者名;桐生操 発行年(西暦);2000 出版社;PHP研究所
 ローマ時代には「辺境」、そしてエリザベス王朝からヨーローパの注目となり、ビクトリア王朝に爛熟の時代を迎える。殺人事件など種々のエピソードが記載されているのだが、ビクトリア王朝における秘密結婚の「噂話」やオスカー・ワイルドの話などが非常に面白く、それより時代が後に下ると日本の最近の事件のほうが不可思議で「怖い」といった感じもする。歴史をエピソードばかり連ねて理解するとおそらく「流れ」みたいなものが頭に入らないが、こうして一人ひとりの王侯貴族の恋愛話や怪奇話を読んで見るとそれはそれで公式記録が新鮮に読めるからこれもまた不可思議。
(ビクトリア王朝)
 この本ではビクトリア女王が「再婚していた」とか、「していない」とかといった「話」がメインだが一応ジョージ3世の孫として、本来ならば王位継承にはほど遠い立場であった女王がその王座につくまでも簡単に紹介。母親はザクセンの人なのでハノーバー王朝というのは本当にドイツの色が強い。王座に付いたのは18歳で、しかも産業革命をへて英国が世界の工場として躍進しようとしていた時代。ドイツ人の夫と仲むつまじく暮らして、スキャンダルには無縁のまじめな王侯貴族の道を歩む。1861年にその夫が亡くなるが、それまでは理想的なロイヤルフェミリーとして親しまれていた。で、そのスキャンダルは非常に世界を驚かせた…というエピソードなのだがどうにもこれは「ウソ」のようだ。娘はドイツのフリードリヒ3世と結婚し、さらにビクトリア女王の孫はドイツ皇帝ウィルヘルム2世となる。英国のみならずドイツともつながりをもつハノーバー王朝の「草分け」というか、現在のマスコミに露出する英国王族のイメージ戦略の始まりかもしれない。

生き方の美学

著者名 ;中野孝次 発行年(西暦);1998 出版社;文藝春秋
 ひさかたぶりに「ひどい本」を読んでしまった…。なにせ「生き方」の「美学」であるからして、当然に多種多様な価値観がある程度はあっていいものなのだろうが、モデルになっている人物のほとんどが帝国大学卒業でエリートになれたけれども体勢に異をとなえて自分の道をいった人ばかり。そういう生き方も一つの選択肢だけれど全員がそうした隠遁生活に入ってしまったらこの社会は成立しないではないか。だれもがみな地位やら役職やらにミレンがあるわけではなくて、それなりに高いポジションには大変な義務が生じるケースだってかなり多い。悪例として出されるのがいわゆる汚職をした高級官僚だが、高級官僚の大多数はやはり熱心に働いているわけでそうでなければ普段の生活がこんなに安定している国は世界でもそうあるわけではない。
 あれかなあ。他人になにかしらの哲学とかライフスタイルとかを説教する人ってどこか無知なんではなかろうか。こういう作者の略歴はしっかり東京大学文学部卒業だったりしてそれもなんだか…。

大往生

著者名;永六輔 発行年(西暦);1994 出版社;岩波書店
 「人生ね、あてにしちゃいけません。あてになんぞするからガッカリしたり、悩んだりするんです。あてにしちゃいけません。あてにしなきゃ、こんだもんだ、で済むじゃありませんか」「「死に方ってのは生き方です」「生まれてきたように死んでいきたい」…というような死に方をめぐる箴言や評論。最近、病気とか死ぬ人とか周囲で多いし、結局死んでしまうとあの世には多分思い出ぐらいしかもっていけない。で、どうしても虚無的になりがちなのだが、この本では「老い」とか「病気」とかも独特のユーモアできりさばく。そうしたあたりが多くの人たちの共感をよんだのだろう。
 身一つであの世にいくとおもえば…とはいえ、案外、生きる術がなくても死ぬこともできずに苦しく生き延びることができるか、といえば自分はまだそこまで達観していない。だからこそセコセコ働いていたりするのだが…。

2007年11月20日火曜日

小さなことにくよくよするな!2

著者名;リチャード・カールソン 発行年(西暦);2000 出版社;サンマーク出版
 落ち込んだときには映画ではラブコメ。本を読むのであればこの手のビジネス書籍というのが個人的なスランプ脱出法である。「前向きな気持ちを忘れずに」「反論にうなづく」「だれの人生も楽ではない」などなど。辛気臭いのは自分でも重々承知なのだが、確かにこの世のすべてのことが「小さなこと」と割り切れて、第三者の立場も理解・共感できるようになればすごいことだと思う。そうした人間になれればよいが、割と利己的に行動する自分にも結構自己嫌悪になることは多いのでどうにもこうにも。
 一種、辛気臭い説教話を聞いていると思えばいいのかもしれない。年齢を経るごとに、説教だの注意だのといったことはだれもしてくれなくなる。ある程度自分を客観的にみれるようになることが大事なのだろう。

始皇帝暗殺

著者名 ;皇なつき 発行年(西暦);1998 出版社;角川書店
 秦の始皇帝といえばなんでもかんでも規格化・統一化をしたがった人物であり、その出自は超の国にあるといわれている。超・燕・秦の三つの国を舞台にちょうど韓の国を征服した直後の始皇帝をめぐる愛人と殺人者と皇帝の物語。つまらなくはないが、はたして当時の中国でこんな近代的な考え方をどれだけの人がしていたのかは疑問。もちろん暗殺者は失敗するのは誰でも知っているわけだが、ヒトラーと同じくこうした絶対権力者の暗殺物語というのは考えるのには面白い。
 あまりに価値観や言語が多様すぎても、混乱が生じるし、急速な規格化も混乱をまねく。環境の変化に対応できない時代の雰囲気みたいなものは感じたりもするが、商品というものがさほどない時代。「名声」とか「壮士」とかいった言葉に生きがいを感じた人間も確かに存在したのだろう。う~ん、でもやっぱ、わからん…。

ヨシボーの犯罪

著者名;つげ義春 発行年(西暦);1992 出版社;小学館
 つげ義春の初期の作品を納めた一種の豪奢版。昭和という時代の(しかもおそらく昭和30年代の)風景を緻密に描き、得体の知れない実存主義者や古本屋の主人などが何気なく出てくる。ストーリーはないようであるような不可思議な世界で、増水で氾濫した家で飼っていた雷魚が、家の床の下にまだいた、などおそらく実話からヒントをえたエピソードが連ねられる。人間というものがあまり変わらない存在であることと、木造アパートのわびしさがひたすら描かれるのが興味深い。架空の世界ではあるが、とてつもなく話はリアルで自分が存在すらしていなかった頃の日本なのに妙に郷愁を覚える。

性愛論

著者名;上野千鶴子 発行年(西暦);1991 出版社;河出書房新社
 対談で構成されているが一番面白いのは、田中優子と上野千鶴子との対談で江戸文化における地女と遊女の関係性を模索してくれている。当時の人間関係論などは、文献や服飾などから表層的に考察せざるをえないのだろうが、それでも現在と当時とでは男女の関係はかなり違っていた(江戸時代以降明治時代の公娼制度までの連続性と南北朝時代までの白拍子と神社との密接な関係は対比すると非常に興味深い)。鎌倉時代以後、武家政治が始まるが、江戸幕府は武家政治の最たるもの。その中でいわゆる工場のような遊郭ができあがるわけだが、この両者をリンクして考えておくこと、あるいは念頭においておくことはこれからの時代大事だろう。必ずしも現在の日本が当時に逆戻りするようなことはもちろんないわけだが、わけのわからない「抑圧的な思い込み」からなるべく排除されるのが近現代の国家のありかたであり人間のマナー。許容範囲がどれだけひろいのかは国際化といった言葉を「抽象的に」考えるだけでは実用性がない、というようなことにも思い至る。

ヒヤパカ

著者名;山野一 発行年(西暦);1989 出版社;青林堂
 またまた山野一の作品集だが…。1989年といえば日本経済はバブルのまっさかり。つげ義春とは違う意味で昭和の原点やら貧困といったものに取り組んでいた「異常な作家」の作品集。だいぶ読み返していたのだが、今回を最後に棄てる事にした。人間の深層心理(エス?)にはおそらくはかりしれない残虐さと優しさが混在しているのだと思う。ただその多くは文明生活の中ではぐくまれてきた負の遺産のような気もしないではない。近代精神の究極の世界の中で、時間と論理がまったく相似形では働かず、西欧文明とインド文明が混在した得体の知れない世界の中で、ありふれた人生哲学のほとんどすべてを破壊しつくす。貧乏とか飢餓といったものがなにをもたらすのかをここまでやるかというぐらいにまで追求しつくす。今の生活に贅沢はいえないし、そしてまたいつしかくる飢餓生活を想定してみると、ここまで人間はやれるのだ、それでも生きるのだ…といったキレイゴトではない世界が展開する。ただし。おそらく社会人になって仕事をもてばこうした生活はまんざら嘘でもないし、そうした飢餓生活への「恐怖」からたぶん労働にいそしむケースもあったりする。どうにかなるか、どうにもならないかはまた…人それぞれか…。

やさしい情報整理学

著者名;かい・きよみち 発行年(西暦);1971 出版社;社会思想社
 社会思想社の現代教養文庫といえば昔はけっこうな売れ行きだったと思うが、今ではその社会思想社自体もない。この本はアナログ時代の情報整理について考察したものだが、1971年発行でその後23回も増刷しているかくれたロングセラー商品。新聞の切り抜きやカードの利用方法などについて紹介されているが、このカードが今のパソコンのファイル、カードボックスがフォルダと読み替えていけば十分応用可能な内容だと思う。収集した情報は加工して整理しなければ意味がなく、結局集めるだけだと情報が死んでしまうというのもパソコンと同じ。メモや手帳などは今でもパソコンでは代替できない貴重な情報整理の技術だが、それについても考察がなされており便利。思えばこうした先人たちの努力の上に今の情報整理やデータベースの技術があるのだとふと思ったり。

旅少女

著者名 ;荒木経惟  発行年(西暦);1996 出版社;光文社
 もともとはJR東日本のキャンペーンとして作成された写真を「旅」をメインに構成しなおした写真集。ドロドロとしたイメージのアラーキーではなく、希望と不安にあふれた子供がいかに旅をしているかに焦点をあてて作成。どうにもきはずかしいエッセイなども間にはさまっていてアラーキーにしては異色の写真集だろう。昔はこうした街の中に非日常的ななにかを撮影していくアラーキーの手法が大好きでほとんどもっていたのだが最近は写真といったものについてだんだんみることが億劫にもなってきた自分がいる。何もみないでいることの楽さみたいなものは、結構それはそれで快感ではあるが。知らないでいることの楽、見ないでいることの楽…というものもあるとは思う。

台湾論

著者名 ;小林よしのり 発行年(西暦);2000 出版社;小学館
 かつて台湾からの留学生と話をしたときに、アジアの中では珍しく、親日的な発言が多くびっくりしたことがある。また、日本語と英語の両方をあやつるとともに社会福祉政策や情報処理についても深い勉強をすすめ、さらに社会学についての論文を作成中だった。こうした高い学力とさらに日本に親しみつつも、日本の研究業績や学問体験を勉強するとともに、さらに台湾にそうした研究成果を持ち帰り明日の国の発展にいかそうとしている姿勢は脅威でもあった。もちろん尊敬の対象でもある。中華人民共和国との複雑な歴史、本省人と蒋介石からの外省人との対立、そして民主化という流れの中で、独特の国家意識を構築してきたのだろうが、小林よしのり氏はこの本の中で国家意識とは血の問題ではなく精神の問題だとしている。イスラエルなどの国をみても確かにそうだが、どうしてこうしたことが本になるかというと、おそらく台湾についての理解が不足していると著者は思ったのかもしれない。だがそれはあくまで台湾民国のありかたであって、日本とはまた異なる。同じアジアの島国ではあるが、日本が台湾から学ぶべき点とそうでない点というのは確かに存在するように思う。安易なナショナリズムや過去への礼賛は、多分、生産的ではないし、単純な議論ほど一色にそまる特質がわれわれにあることは注意しておくべきなのだろう。複雑怪奇な文化の集積地点で、アニメ産業が世界で評価されるこの国のありかたはもっとソフトウェアに特化した、マイルドな集合体なのかもしれない。なるべく多くの人種やイデオロギーを包摂できる集合体というのが最終的には一番強い集合体でもある。それをシンプルにまとめあげようとしたときに、多分、染まることが最優先されるリスクみたいなものがあるとは思う。とはいえ漫画でここまで細かく歴史を検証してしかも、オリジナルな議論を読者に読ませるというのはすごいことはすごい。

世界地図の楽しい読み方③  

著者名;ロム・インターナショナル 発行年(西暦);1999 出版社;河出書房新社
 実用性は専門家以外には多分ないであろう地図のお話。でもこうしたエピソードばかり読んでいると結構楽しい。たとえばパリでは地下から石を取り出して都市を建設していったので、地下通路ができあがる。最初から地下街や地下鉄を作ろうと思って彫っていたのではないから、陥没事件などもけっこう昔はあったあそうだ。地下水道もあるが、ところどころに貯水池もあり、それが「オペラ座の怪人」に引用されている地下水路。かつての石切り場に水が蓄えられて、1万平米もあったという。またアフリカ最古の王国エチオピアには4世紀ごろにはキリスト教が伝わり標高3000メートルの場所に6世紀に修道院も建設されたとか。大西洋に望む街リスボンは古代フェニキア人によって開かれ、首都になったのは13世紀。坂道が多いのでケーブルカーが利用されているなど。イタリアもまた1803年にナポレオンがイタリア共和国をたてるまではその名前がなく統一国家になったのは1861年。長身で金髪の北イタリア人、づんぐりで栗色の髪のアルプス人、小柄で骨太な体系に縮れ髪の地中海人種など生物学的にも北部と南部の差は大きいという。イタリア人が都市や地域で「ナポリ人」などと名乗るのは、ベネチア共和国など多数の国家に分かれていたことのみならず、人種的にも差異が大きいからだそうだ。こうした知識がなにかの役に立つのかというと実はたたないのだが、でも楽しいことは楽しい。知らないよりは知っているほうがすごく個人的には楽しいのだが。

皇妃エリザベート

著者名;名取香子・ジャン・デ・カール 発行年(西暦);2001 出版社;講談社
 フランツ・ヨーゼフが静かに語る場面からエリザベート暗殺まで。さらに息子ルドルフの「心中事件」については、通説とは異なる展開を示す。格式が重視されたウィーンでのハプスブルグ家の生活が結構リアルだったりする。、あたハンガリー帝国への思い入れもビジュアルに伝わる。1837年ミュンヘン生まれのエリザベートは、南ドイツの貴族ヴィッテルスバッハ一族。政治的な動きはあまりミュージカルなどではとりあげられないが、1866年にオーストリアがプロイセンに敗北して、ドイツ周辺への影響力を失うと支配下のハンガリーがハプスブルグに対抗しようとするのをおさえつけ、オーストリア=ハンガリー帝国の創設にも尽力したようだ。この当時ハプスブルグ家は凋落しようとしており、支配していたイタリアも1859年に独立戦争をおこすがエリザベートはイタリアにもかけつけようとした。ただし本人はいずれ共和制へ政治が移行するであろうという予測もそなわっていたという。しかしそうした19世紀の凋落の中でウィーンは世界文化の中でも特筆すべき発展をみせる。音楽ではマーラー、ヨハン・シュトラウス、ブラームス、ブルックナー、画家のクリムト、心理学のフロイト、文学のカフカ、リルケ、経済学者のシュンペーターやそのほかのいわゆるオーストリア学派(微分などを用いて限界革命という手法をうみだした)。このハプスブルグ王朝はエリザベートが1898年にスイスのレマン湖で暗殺された20年後に第一次世界大戦終戦時に帝国内諸民族代表者会議をへて滅亡する。中部ヨーロッパを支配、いやヨーロッパ全体を支配したこの王朝の最後にはやはりこうしたヒロインが登場するというめぐりあわせか…。

2007年11月18日日曜日

働くことがイヤな人ための本

著者名;中島義道  発行年(西暦);2001 出版社;日本経済新聞社
 「働く」という言葉の意味はいまひとつ今でも自分でもよくわかっていない。金銭を得るために労働を提供するとか、そうした経済学的な定義だけではおさまりがつかない。だって人によってはお金を度外視しても仕事にうちこむケースもあり、そうした場合には、仕事には労働の提供以外に、娯楽とかゲームとかいった要素も入ってくる。ベンチャー企業の労働にはおそらく博打を楽しむような面白いさもあるのではなかろうか。で、著者は科学哲学の専攻なので哲学的に話が始まり、要は高等遊民のような生活とか人生に合理性を求めるな…とかそうした議論を展開しているように思えた。「思えた」というのはこの著者にも結論はでていないので、読んでいる側である程度結論をはしょって理解しないと、実際の生活はできなくなるという内容だと思う。「不器用なたくましさ」といったキーワードや運不運とかいった言葉もでてくるのだが、あまりこうした哲学的な議論をるよりかは、まず何かをはじめたほうがかえって早道なような気もする。こうした哲学的議題がどうであれ、まずは現実世界で生活をしなくてはならないのだから。

どぶさらい劇場

著者名;山野一 発行年(西暦;1999 出版社;青林堂)
この本も新刊(ただし出版自体は1999年版のものは再発行バージョン)で当時購入したものだが今回が読みきり最後。
交通事故を起こした富豪の令嬢が相手方に恐喝され、最後には一文無しに。そして新興宗教の教祖などをへて最後は…という「転落」の物語でしかも救いがまったくないまま終わるという1999年の作品らしく、アンダーグランドな世界が終始展開する。
昔は面白く読めたのになぜにもう読み返す気力がなくなったのかといえば、おそらくこうしたアンダーグランドな世界の果てのなさに、嫌気がさしたのだろうと思う。とことんまで貧困を描き、シャブ中やアル中など種々の人間があらわれ、ナマズを愛好するというちょっとアレな人々なども詳細に描かれたりするのだが、どうにもこうにも神経に耐え難い世界だ。あまりに現実を美化するフィクションにもついていけないが、あまりに露悪的すぎるのも考え物。要は中間地点に美学とか現実感とかがあるような気もする。論理も表現も難解なこの本。もしかすると高値でサブカル中心の古本屋が購入してくれるのかもしれないが、ゴミ箱へポイ(混沌とした宗教観みたいなものも、ちょっとみえるのだが既成の宗教の「先鋭的な部分」を適当にごちゃまぜにしただけではないか…という疑問も)。

むいむい

著者名 ;西原理恵子・西田孝治 発行年(西暦);1997 出版社;小学館
 「虫」の話ばかりず~っと描かれており、離婚したばかりの担当編集者の性癖まできっちりと。自虐的とも思えるこの書き様。けっこう読んでいて快感でこういう毒みたいなものも世の中に必要だと思われるのだが、ある地方自治体はある作家に「教育上悪いので学校のことを書かないでください」と申し入れたという。へえ。行政側が出版物に対してものもうすというのは一般的には検閲にあたる。裁判所は出版差し止めができるがそれにしても、かなり厳しい要件がかされており、昨年も何某元外務大臣の娘さんとある出版社でそうした判例が確認されたばかり。にもかかわらず、検閲まがいのことをした地方公務員が「教育上の配慮ですので」とことの重大性を認識していないというのはちょっとどうかなあ。思想・信条の自由とかいうものは教育上の配慮よりも優先されるべき趣旨のものだと思うのだが(それに小学生が漫画を買ってよむかしら。読んでもちゃんとそこで教えるべきことを教えるのが教師とか地域社会の勤めであって、純粋培養では逆に将来こわいじゃん)。ともあれ西原理恵子氏はかの有名なT女子高裁判の原告でもある。いろいろいわれて大変だが支援したいしさらに今後楽しみな人だ。

やんごとない姫君たちのトイレ

著者名;桐生操  発行年(西暦);1995 出版社;角川書店
 トイレとかお風呂とかに関する歴史上のエピソードを集めた本だが非常に面白い。特にフランス王家の登場する比率が高くアンリ4世とその息子のルイ13世、さらにルイ14世、ルイ15世とポンパドール夫人のエピソードは非常に印象的。東洋のエピソードも一部混じっているがやはりルイ14世の築いたロココ王朝の文化は今でもその名残を残しているようだ。このルイ14世は「歯から病気に感染する」といわれて歯を全部ぬいてしまったり、ネクタイを発明したりとはなはだすごいところに太陽王の名残を残している(もっともネクタイのさらに源はローマ時代に出征する兵士の妻が安全を祈って首にまいたものとか)。
 ルイ15世の愛人ポンパドール夫人はハーレム(プチ・メゾン)を建築するは、金属製のビデを2つ持っているは、かなり大きな浴槽をルイ15世から譲られてそれを噴水に転用するはとエピソードの宝庫。さらにブラジャーが発明されたのはベネチア共和国の時代だがそれが多数用いられるようになったのはロココ王朝の時代。コルセットもロココ王朝でかつらや白肌のお化粧もロココとなればほとんど現代のお化粧のあらゆるパターンがロココ時代に模索されていたことになる。むちゃくちゃ面白いのだが、残念なことにエピソードにまとまりがない。もう少し時代ごとに並べるとか工夫があればよかったのに。

英国流立身出世と教育

著者名 ;小池 滋  発行年(西暦);1992 出版社;岩波書店
 教育学のスタンスに人間の生産能力を発展させるツールという視点がある。もっぱら経済学の手法によるが、これがまた結構数値的に処理できる部分が多いので利用しやすい。この本では主に批判的に立身出世主義をとらえつつも、まずは分析の一つとして階級社会である英国を「立身出世」という観点でとらえて、歴史的・文化的に考察を加える。最初は「セルフ・ヘルプ」からだがもともとプロテスタントの土壌であるから勤勉とか節約とかいった概念は土壌としてあったが、それが階級社会をのりこえて社会にダイナミズムを生み出すプロセスを分析している。スマイルズの論理はいたって明快で必要なのは勤勉努力とする点が当時の英国さらには翻訳されて日本でもうけた。抽象的な栄光とか理想だけにとらわれず、低迷・極悪趣味といった苦渋を味わうことで人生の本当の味をあじわうという筆者の姿勢はさらにその後、一般教養が貴族階級による勃興しつつあった庶民階級との差別化に役立ったこと(だからこそラテン語など貧乏な家庭では獲得できない言語に貴重性を見出したとする)、パブリックスクールの特権性などを明らかにしていく。英国の教育の歴史を概観しつつも、さらに日本の教育問題にも示唆をあたえる貴重な歴史の本だと思う。ディケンズやサッカレーなどの著作物に対する解釈もまた面白い。

世界地図から歴史を読む方法

著者名;武光 誠  発行年(西暦);2001 出版社;河出書房新社
 テーマは壮大なものの、やや新書では扱いきれない世界史の概観と地図のお話。中国、ロシア、インド、モスクワ公国、ローマ帝国…とそれぞれ一つのテーマだけで本ができるくらいのテーマを扱っている関係で、世界史の粗筋と簡略化された地図の掲載が精一杯といった感じだろうか。中世の強者はヨーロッパでも中国でもなく、イスラム教徒であるサラセン帝国と騎馬民族であるモンゴル帝国とか、わかりやすい文章もあるのだけれど、ただ単に歴史的事実を並べておっていった章もある。読み物というよりかは参考書といった感想になってしまう。フランク王国と現在のフランス、ドイツ、イタリアとの関係ももう少し踏み込んでほしかったなあ。フランク王国がカソリックに改宗して西ローマ帝国の称号を与えられて、その後カペー王朝のもとでフランスが兄弟になって言ったのはわかるのだけれど、案外書籍では著述されていないフランク王国がいかにしてベルダン条約を結んだのか、とかその線引きはどうやって決めたのかとかそうした経緯が地図で示されていると有難いのだけれど。ただカペー王朝→バロア王朝→百年戦争→ブルボン王朝といった歴史関係についてはそこらの受験参考書よりもわかりやすいかも。しかしなあ…。

チェザーレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷  

著者名;塩野七生 発行年(西暦);1981 出版社;新潮社
 フランス文学ではカンタレッラという毒薬を用いて、さらにローマ法王である父親や妹とのただならぬ関係などあることないこと書かれたチェザーレ・ボルジア。ただこの本では歴史的事実にそくしながら、イタリア統一をはかろうとする16世紀20代の天才的な政治家であるボルジアについて筆をおさえつつ、さらにナポリ公国をめぐるスペインとフランス、フランスに近いフィレンツェ共和国や老練なベネチア共和国などあらゆる外交関係を分析・利用しながら、小領主たちをほろぼしていく手腕と政治哲学が展開される。カソリックの僧侶でありながら、それを脱し、さらに老練なルイ12世とのただものではない表面的な親密さ、さらにレオナルド・ダ・ビンチやマキャベリとの交流など、16世紀イタリア半島とフランス、スペイン、神聖ローマ帝国の政治模様が面白く描かれており、あっという間の読破である。微笑をうかべながら「あらゆることに気を配りながら、私は自分の時が来るのを待っている」というボルジア。あくまで虚構のボルジア像だが、その凄みは毒薬使いというドロドロしたフィクションよりも、ぞっとさせる瞬間だ。

着想の技術

著者名 ;筒井康隆 発行年(西暦);1983 出版社;新潮社
 あくまで「虚構」にめざめようとし、言葉の力を信じようとする当時はSF作家としてしられていた筒井康孝氏の着想の変遷をつづる。ガルシア・マルケスなど当時はあまり日本では知られていなかった作家にいち早く注目し、それを読者に紹介するとともにその後の自分の作品についての展望も語る。「批評」についてやや感情的な文章も散見されるものの「夢」の分析など緻密な文章は無意識の力と言葉の力で作品をうみだす作家の苦労の歴史といえるのかもしれない。すべての書物が教養=商品で一つの問題に対する答えがたいていその本に書いてあるという時代から現代の一つの問題に対して複数の解答が用意されているという時代への端境期にあったということもいえるのかもしれない。国家・村・共同体への考察も含むアイデアの元となった文章が満載。

ハーバードの女たち

著者名;リズ・ローマン・ガレージ 発行年(西暦);1987 出版社;講談社
 ハーバードを卒業した4人の卒業生を中心に構成。インタビュー記事がメインだが、どうにも気がめいる話ばかり。ケーススタディなどの授業を通じて独特のセクションが完成していくプロセスと入学制の10パーセントを占めた女子大生の相互の緊張感などがひしひしと伝わってくる。日本の「グロテスク」よりも、なんだか後味が悪いかもしれない。著者は、単に企業の中だけの話ではなく家庭や生育状況などにも踏み込んでインタビューを展開するとともに、取材が終わった後の交友関係などにも筆をさく。それがまた後味を悪くする。映画「キューティ・ブロンド」でハーバードに入学した「超お金持ち」の女子大生を主人公にしていたが、この小説では溶接工の娘、いったん看護士として働いた後に29歳にしてハーバードを卒業した女子大生など必ずしも選良とは目されないコースをたどった人間の足跡もたどる。「企業社会では、特定の仕事をうまくこなす者よりも、純粋に権力を追求する者が成功する」など実際にウォール・ストリート・ジャーナルの新聞記者として働きつつ、企業と家庭の両方を目標に近づけようとした著者は、文章の中に相手に対する嫌悪感を隠そうともしない。その筆の鋭さは1973年の卒業生をとらえて迫真のルポとなった。そしてそれから20年。おそらく当時の取材対象者は現在50代。80年代と21世紀とでは、微妙にではあるがだいぶ状況は確かに変わってきたところはある。だが、変わらない部分。それは人間の「生活観」みたいなものかもしれない。あまりに泥臭い現状報告が日本に住む自分にも時空を超えて共通するものを見出し、そしてそれがまた自己嫌悪にもつながるという読後感の悪さ。貴重な報告ではあるが心して読まないと…

整理学

著者名;加藤秀俊 発行年(西暦);1995 出版社;中央公論新社
 わりと古典に分類される情報整理のハウツー書籍だが、「データは整理するだけで価値が出る」ということをこれだけわかりやすく書いてくれる書籍というのも本当に有難い。永久保存の情報以外は一定期間が経過後に棄てるという姿勢というかポリシーは明確だ。記録と記憶を「分類」して評論するとともに、記憶のみに頼るのも記録のみに頼るのも正しくなく、それぞれのメリットを的確に指摘してくれる。デジタル社会の情報整理よりもやはりアナログのほうが頭に入りやすいし、応用もしやすいような気がする。道具をいかに使うかという視点がなによりも重要であることには変わりはない。

エロイカ①~⑩  

著者名 :池田理代子 発行年(西暦);1987 出版社;中央公論新社
 壮大な歴史漫画で共和制の退廃から始まり第10巻まで皇帝となったナポレオンがプロイセン入城までを果たすところまで描く。昔、女子生徒は世界史が得意な人が非常に多かった記憶があるが、こういった歴史絵巻みたいな漫画を読んでいれば興味もわくし、近代立憲政治だのなんだのとややこしい歴史的事件も楽しみながら頭に入る。漫画の効用ここにみたりといった感じも。
 フランス革命が「成功」した後、共和党政府は王党派の残党と戦うことになる。すでにロベスピエールは死亡していたが、共和党政府首脳は退廃のきわみをつくしており、王党派の巻き返しに対しては、コルシカ島出身の下士官に全権をゆだねるしかなかった。ナポレオン・ボナポルトの登場シーン。さらにフィクションとしての新聞記者ベルナールとその家族、ジョセフ・フーシェ、アメリカ帰りのタレーランなどが華を添える。第4巻までにナポレオンがイタリア方面総司令官となり、サルディニア王国への進出、さらに和平条約を交わした後にローマ入城。そして、オーストリア軍との激烈な戦闘をへて和平を結び、パリに戻ってくるまでが描かれる。終始パリの共和党政府から圧力を受けつつも天才的な軍事能力と忍耐、そして背後の政治関係にも目を配る外交センスの卓越さが漫画を通して描かれる。地図なども豊富に挿入されており、フランス革命後にナポレオンが登場してくるまでの王党派と共和党政府の駆け引き、時代の精神といったものが、あくまで日本的な会話と人物像を中心としつつも展開されていく。稀代の戦略家がこの時代にうまれ、そして共和党政府が民主主義を保持するためにナポレオンという軍事勢力を利用しようとしていった背後関係が見事に描かれている。
 第5巻ではイギリス方面総司令官になったナポレオンが共和党政府の陰謀の裏側をかき、エジプトへの進出を開始する。フランス・ツーロン港からのブリテン・ネルソン提督がたどった航路とナポレオンが右左に航路を変えて撹乱していく航路の挿絵が見事。さらにタレーランはトルコ政府との和平条約を締結せず、エジプトでナポレオンはカイロに入城後、トルコの軍隊と対峙するとともに、アレキサンドリア港停泊中の船舶がネルソン提督に撃破される。それと同時にイタリア方面の独立運動が始まり再び共和党政府がゆれるところまでが描かれる。第6巻~第7巻では失意のうちにエジプト遠征から帰還したナポレオンが「合法的クーデター」により憲法改正、そして独裁者となり、共和党政府の総裁に就任する。ジャコバン党員と王党派をともに排除した形となり議会に軍人が足を踏み入れるという実質的には違憲状態でのクーデターだった様子も描かれる(ブリュメールの18日)。またロシアでエカテリーナが崩御し、アレクサンドロ2世がまだ王位についていない状態の様子が少し描かれている。さらに第8巻では軍事面のみならず教育制度、法典制度、裁判制度、レジオン・ドヌール勲章、商工会議所制度などを樹立し、国家のインフラを整えつつ、終身統領としてフランスに君臨するナポレオンが描かれる。第二次イタリア遠征やマレンゴの戦いも描かれるがこのあたりからナポレオンの描写がだんだん厳しくなり軍事面での成果についても筆の厳しさが増してきたような気がする。そしてロシアではパーヴェル1世が暗殺され、エカテリーナの孫アレクサンドルが即位する。第9巻ではついにナポレオンは共和党政府の皇帝となり、ロシアのアレクサンドル、ウィーンのフランツ2世、英国のビット首相の反応などが描かれる。さらに第10巻ではオーストリア-ロシア連合軍をアウステルリッツの戦いで撃破、英国のビット首相が急死し、フランスは英国との貿易を禁止するいわゆる大陸封鎖令が発令される。そしてフランス帝国の絶頂期に凱旋門が建立され、フランス軍はプロイセンに入城する。

エロイカ⑪~⑭

著者名;池田理代子 発行年(西暦);1992 出版社;中央公論社
 第10巻からの続きでどちらかといえばナポレオンの没落の時代が中心となる。トラファルガー海戦(ネルソン提督の英国海軍に敗退)、第三次対仏同盟、そしてアウステルリッツの戦いでアレクサンドル1世率いるロシアとフランツ2世が率いるオーストリアの連合軍を撃破。ポーランド侵攻を開始する。ティルジットの和平条約でロシアと和平を締結するがその後のスペイン侵攻で敗退。そしてオーストリアのマリー・ルイーズとの結婚。そしてロシアへの侵攻失敗をへるあたりからトルストイが「戦争と平和」で描写した敗退の歴史が始まる。フォンテンブロー協定をへてエルバ島に流された後、ルイ18世による王政復古、そしてエルバ島からの脱出劇と失敗をへて「戦争と平和」について印象的な一言をのべてセント・ヘレナ島で死亡。巻末の膨大な参考書籍がまたインデックスとしても活用できる。全部で14巻だが、最近では文庫本でもタイトルを変えて出版している。フランスの歴史はとにかくややこしいが、王政復古とナポレオンの再びの決起、そして再びルイ18世の歴史とフランス革命後の近代国家へのスピードとその失敗が漫画としてよく描かれていると思う。

プラトニック・アニマル

著者名;代々木忠 発行年(西暦);1999 出版社;幻冬舎
 話題のいわゆる「AV監督」による性評論。エゴを棄てて素直になる、自らを投げ出すという主張は最後には「チャネリング」というところまでいってしまう。いや、他人からみると到底真似できない領域に入るのだが、主題の「性」よりもビデオ監督としてラジカルな作品を世に問いつつ、商業的にも成功したそのメイキングのほうが実は個人的には興味深い。
「…子供の遊びみたいなもので、一つのシリーズに良くも悪くも自分が納得してしまったら、次にしたいものが自然と見えてくるのだ」
「私はしたいことをしているだけなのである」
「現在のアダルトビデオは、出演している女優の顔やスタイルだけで勝負し、中身はどれもワンパターンである」
と創作意欲がわく様子を独特の切り口でサラリと紹介し、いわゆるカラミがないビデオを製作してベストセラーにしてしまう。玄人だからわかる顧客の志向ということなのかもしれない。「エゴが死んだとき、人は本当の自分になれる」といったほかの人が言うと説教くさい発言にも人生の修羅場というか裏側を見続け撮影しつづけ、さらに商業的にも成功したプロデューサーだからこそいえるセリフだと納得してしまう部分もある。

大人のための読書法

著者名 ;和田秀樹 発行年(西暦);2005 出版社;角川書店
 和田秀樹氏の書斎の写真も掲載されている。つまみ食い読書でまず知識を活用することに重点を置こうとするコストパフォーマンス主義はやはり独特の内容であり、生真面目な完全整理や完ぺき主義を棄てて、役に立つかどうかで情報を整理していこうとする。究極のあり方だと思う。学者やジャーナリストであればまだ書庫など持てるかもしれないが、書籍というにはほうっておくとどんどんたまる。私の部屋などもう床が抜けそうになっているが、それだけ書籍というものは重量がかさむし、ほうっておくと積んだままの書籍の上にさらに書籍がのっかり、もうどこに何があるかわからない状態にもなる。ある程度つまみ読みして、役に立つものをさらに整理していくというのが場所もとらない上に情報を整理・加工するという本来あるべき姿に近いということなのだろうと思う。デジタル技術で集めた情報も、整理用のソフトウェアが出始めているが、集めるだけでは確かにどうにもならない。どうやって加工してどうやって活用していくかは、目的の設定による。なんでもかんでも暗記するわけにはいかないし、こればかりは個人でいろいろ試行錯誤していくより他にないのかもしれない。

下流社会

著者名 三浦展   発行年(西暦) 2005  

 かつての高度経済成長期の下流社会といえば「所有していないもの」「消費できないもの」という定義だったが、21世紀の下流社会は「意欲がない人」ということになるらしい。アンケート調査をもとにした下流社会論はかなり面白い。アンケートでは30代前半の男性に下流社会傾向が強まり、働く意欲や学ぶ意欲が欠けているため、その結果として所得も上昇せず、未婚になるのだそうな。そして「彼らの中にはだらだら歩き、ダラダラ生きている者も少なくない」。厳しい著述だ。
 一億総中流化といわれたのも55年だが、21世紀には階層化の2005年体制が始まるという。経済分析ではジニ係数という指標で所得の階層化を分析するが、この本でもその手法は踏襲されており、中流的な商品はもうあまり売れなくなってきているという。むしろマーケティングとしては階層が上の消費者にターゲットを絞るべきだという結論となり、昨今の百貨店はあまりにも商品の品揃えを中流家庭にあわせすぎたという。この中でさらに性別・年齢をもとにクラスターを分けていくのだが女性については、階層上昇志向か現状維持志向か、で4つのマトリクスに分類し、職業と階層上昇を意識するのが白金台に住むシロガネーゼ、現状志向と専業主婦志向がギャル系という。で、独身生活が長期化している女性は「干物」とか表現してある。勇気あるなあ、この著者。
 ギャル系になるともっと分析は厳しい。結構街にはギャル系がめだつわけだが、「専業主婦志向が強く」「出身階層から考えて一流大学、一流企業の男性と出会うチャンスは少なく」「多くはガテン系と出会う」のだそうだ。この著者のギャル系に対する「憎しみ」みたいなものはOLの分析にも現れており「(OLは)ギャルになるにはそこそこ知性も学歴も高く」と書いてある。ということは社会調査でギャル系は「知性がなくて学歴もない」とかいう結果がでたけれどそれはあからさまにはかけなかったということなのか…。で、下流社会の男性は「パソコン・携帯電話・プレイステーション」が娯楽の中心で、下流女性の中心は「歌とか踊り」なのだそうだ…。えらく大胆な「仮説」が提唱されているが統計データのサンプルがあまりにも少ないので(それは著者も認めている)この仮説はあくまで仮説として受け止めないとまずいだろう。確かに、一流高校とされる女子学院とかでギャル系というのはあまり見たことがないような気もするし、秋葉原にいる男性ってなんとなく収入がそれほど高いというようにも見えない気もする。こういう分析がもっとマクロでちゃんとできればよいが、カラオケに行くのが下流社会というのもどうにも納得できない。だって俺もカラオケには行くし、しかし意欲がないわけではないからなあ。
 衝撃の新書だがこれから相当に反発もくらうであろう一冊。面白いことは面白い。

さおだけ屋はなぜ潰れないか?

著者名;山田真哉 発行年(西暦);2005 出版社;光文社新書
 累計100万冊を超える会計学の本。時代もここまで来たのか、としみじみ実感。複式簿記など一部のマニアックな人間しか学習しなかったはずだが、会計学人口は現在300万人は超える。しかもその数はこれから増える一方だろう。15世紀イタリアから生まれた技術はいまや21世紀には必要不可欠のスキルとなり、そしてまたその遣い方を優しく教えるこの本はやはり売れるべくして売れたのだろうという気がする。扱っている理論そのものは基本的なことばかりなのだが、それを現実に応用してその効果を示した功績は大きい。特にリピーターをいかに増やすか、という視点は回転率の増加と等しい…という視点や多数ある指標のうち何と何を重視するべきか、という視点は実生活でも相当に応用可能。この著者はまだ31歳だというのにたいしたものだ。

日本経済再生の戦略

著者名;野口悠紀雄 発行年(西暦);1999 出版社;中央公論新社
 構造改革と景気対策は異なるものであることを指摘し、将来の超高齢社会では日本のマクロの貯蓄が必然的に減少すること、そしてその対策のために今ある総貯蓄を効果的な投資対象に振り分けていくことなどを解く。構造改革の「構造」とは、野口氏のいう「1940年体制」であり、借地借家法、間接金融、業界団体、物価の行政指導などがある。これらは大分改正され、借地借家法の改正ではすでに定期借地権などの設定も可能となっている。また間接金融の担い手である銀行も大分整理統合され、ライブドアなどのように新株予約権(転換型)を資金調達に効果的に駆使する企業も登場した。そして帝都高速交通営団の民営化もおこなわれ、後は政府系金融機関が整理統合・縮小し、郵政民営化がなされ、国家公務員が本当に削減されればある程度構造改革が出来たと考えていいのかもしれない。しかし、これはあくまで第1ステージであって、その次に効果的な投資対象に貯蓄を振り分けるという作業が残る。後の世代に技術や知識など競争力の源となる資源を残し、リーディングインダストリーを育成すると言うのは並大抵のことではない。それこそ試行錯誤が必要な作業であり、市場の選別が必要だ。さらに人材のクラウンディングアウト現象ともいえる優秀な人材の国家公務員への就職というのもややもったいない。特に理科系学生がもし国家公務員となってしまうと本来民間企業で製品開発をするべき人材が書類の整理とかをする可能性もあるわけで、やっぱり終身雇用制度は維持するとしても、キャリア制度をなくして自由競争の原理を持ち込むとともに、民間部門との人材交流は必要だろう。あ、ただし書類仕事しかできない人間が民間にきても意味ないので、やはり起業家としても通じるノウハウをもった人や研究業績がある理科系等の公務員ということになるのだろうけれど。政府系金融機関についても必要な部分は確かにあるが、それが民間金融機関の商品開発を阻害したり、本来金融機関から企業へ資金供給されるべき資金がわけのわからない第三セクターにまわされるのはかなりまずい。構造改革もおそらくここらあたりが正念場。郵政以外にも独立自営的な組織にしなければならない国家機関はまだ多数存在する。たとえば日本放送協会などは民営化して何の不都合があるだろうか。

試験に受かる人落ちる人

著者名;和田秀樹 発行年(西暦);2003  出版社;幻冬舎
 復習の重要性と実力・精神力・戦術の重要性を説く。ノウハウ本ではあるのだが、過度に禁欲的な生活はかえって暗記などにはむいていないなど、わりと納得できる指摘も多い。また綺麗なノートは逆に記憶を阻害するなどかなり実践的な内容でもある。
 学力に加えて情報収集の重要性も説かれるが確かに、たかだか宅建の民法を受験する際にも司法試験ばりの民法の書籍をあたるのは遠回りといえる。納得できるし、読み返すとカンフル剤にもなるような内容。

世界一受けたい授業(能力開発編)

著者名 ;和田秀樹、斉藤孝、多胡輝など 発行年(西暦);2005 出版社;日本テレビ
 能力開発関係の話題の著者がなんと5人そろい踏みで、それぞれのノウハウを披露してくれている。1000円以下で5人の著者の作品が楽しめるのだから非常にお買い得だし、興味がわけばさらに別の著作物にあたることもできるだろう。個人的には斉藤孝氏の「器用な人」と「不器用な人」の2分類、さらに不器用な人の癖を「技化」するという発想が気に入る。だれしも癖はあるものだが、それをスタイルとして活用してしまうというもので、確かにこういう考え方だと、各人各様のいろいろな取り組みも可能になる。不器用な人は最初はやはり生産性がおちるわけだが、いろいろ創意工夫をしていって、最終的にはある程度のアウトプットを出していこうとするもの。それにはやはり、継続した反復演習とワザとして磨いていく創意工夫につきるのだろう。さらに蔭山英雄校長先生の「限定されたものを単純な方法で反復演習する」という考え方にも共感。単純なことをいかにして反復演習していくのか、さらに一回やるごとにどうやってそのスタイルを深めていくのか、というのは茶道や音楽にも通じる「習熟」の基礎ではないかと思う。

孤独のチカラ

著者名;斉藤孝 発行年(西暦);2005 出版社;PARUCO出版
 1980年代から日本人の多くが「孤独」よりも「コミュニケーション」を重視しはじめて、その結果、内部に沈潜したり、あるいはなにかしらの知的努力を蓄積する機会を失っているのではなかろうか…というのが筆者の意見のようだ。「ひとりの時間とは基本的に自分を鍛える時間、何かを技に変えていくために費やす時間」というくだりがそのあらわれだと思う。この「技」という言葉が斉藤氏のキーワードだが職人であれなんであれ、なにかしらを突き詰めていく場合には「孤独な修行」というのがつき物。ただし携帯電話やらなんやらの発達でいまどき、孤独に修行をするという時代では確かにない。少なくとも一人でいる時間をいかに充実させるか。あるいは一人でいることがいかに貴重なことかを認識させてくれる本だと思う。

ブラック・ダリア

著者名;ジェイムズ・エルロイ 発行年(西暦);1994 出版社;文藝春秋
 ブラック・ダリアというのは実際にハリウッドで発生した猟奇事件。この写真を見たことがあるのだが、まるで笑っているかかのように口が耳元まで裂けていた。この事件は結局未解決となったが、実際のこの事件をもとにジェイムズ・エルロイがミステリーを構築。とはいえ、「暗黒シリーズ」と銘打たれているだけあって、非常に内容が暗い。暴力シーンや発砲シーンなどの描写は文字で描写されているのにこれまた救いがない。もし救いがあるとしたら、捜査を担当していた刑事が最後には懲戒免職となり、そして飛行機で目的地に飛び立とうとする瞬間のみだろうか。1947年という第二次世界大戦直後のアメリカでしかもドイツ系統の父親をもち、徴兵を忌避したという主役の素性自体が暗いのだが、戦争に勝利しつつも何かムクワレナイ1940年代の八百長ボクシングや犯罪都市ロスアンゼルスの描写はやはりこの作家独特のものである。殺伐さは既存のハードボイルド小説の領域を超えるが、これはまた好き好きかもしれない。平和を理解するときには時にはこうした小説もまた役に立たないではない…。

大人のための試験に合格する法

著者名;和田秀樹 発行年(西暦);2002 出版社;日本経済新聞社
 社会人向けの勉強指南の書籍。直前の生活のすごし方などかなり実践的な内容だ。おそらくかなり好感をもって読む人とある程度反感を持つ人の両方に極端に分かれる本ではないかと思う。私はかなり内容的には自分にあう方法を提唱してもらっているのでお勧めしたい本ではあるが、ネットでみるかぎり匿名掲示板などでは、こうしたテクニカルな内容には拒否反応を起こす人もいるらしい。ただし、著者自身も別の本でいっているように自分にあう内容を自分なりに取り出して活用すればいいのだから、それほどこだわる必要性もないと思う。「問題の見直し」や「チェック」などあたりまえとも思われがちなことまで書いてはあるのだが、実はそうしたあたりまえのことを再確認できるという意味でもお勧めである。あたりまえのこと、復習だとか確認だとかがちゃんとできるかできないか、ということも一つの資質ではないかと私は考えるし、だからこそ著者の主張には大いに賛同する。アウトプットトレーニングの重要性などもここまで社会的に認知されるようになったのは和田秀樹氏の功績が非常に大きいと思う。「できるだけのことはやる」という割り切りのきいた実践的な教え。こうした実学的な教えんついては確かに拒否反応をもつ人は多いのだが、抽象的な議論と具体的な議論と実はこの世では両方が必要だ。あまりにも抽象的議論ばかりでは、現実世界に対応できなくなる。こうした実学重視、アウトプット重視の考え方がもっと広まってもいいと思う。もちろんそれと同時にポストモダン的な発想や論理、感性といったものも同時に必要になるとはもちろん思うが。

「脳」整理法

著者名 ;茂木健一郎 発行年(西暦);2005 出版社;筑摩書店
 「私が遠くを見ることができたのは巨人の肩に乗っていたからだ」(ニュートン)。あふれる情報と知識をいかに生活に結び付けて「整理」していくか。そのためには不確実性(隅有性)といかにして戯れるかといったテーマで語られる。安易な正解ではなくむしろ偶然性があるからこそ悲劇もうまれるということまでみすえて、だからこそ一回しかであえない偶然のアクシデントが感動を生む。「意識」をもち「質感」(クオリア)を感じる人間だからこそ、さまざまな生活の知恵や世界的な知恵もうまれてくる。不確実性の中で、それでも絶望的になることなく、今ここにある生活と世界をみすえる。大胆なテーマだがこれ理科系の人の考えなのにきわめて哲学的。
 偶然とたわむれることなどまだ私はその領域にまでとうてい達し得ないが、この著者しかも40代前半という若さでここまで達観できるということにも感銘を深く受ける。

失敗に効く本

著者名;和田秀樹  発行年(西暦);2005 出版社;創己塾出版
 「失敗学」と認知心理学を合体させた本でしかも著者解説のDVDもついて1260円。わりとお買い得といった感じではないだろうか。「複数のシナリオ」を描く、などの具体的な実践的スキルが紹介されている。一番いいのは「悲観的に準備して楽観的に実施する」というのが私の本音なのだが、この本では「うまくいったとき」「普通」「最悪のとき」の3つのパターンにわけてシナリオメイクしたほうがいいとする。確かにこの方法はいいかもしれない。キャリアアップのためにいろいろ試行錯誤しているわけだが、どちらかというと失敗することによって反省していろいろノウハウを見つけ出すという作業は心理的には負担だが確かに実りが多い部分もある。試験などでいえば、不合格のときのシナリオ、と合格のときのシナリオぐらいしか思いつかないが、それ以外にもそもそも受験を断念するシナリオなどもあるわけでいろいろなプランニングを同時に多数並列できるかできないかがポイントだと思う。
 「行動は目的本位」というのも結構重要で難しく考えて何もしないでいるよりかは、まずとりあえず目の前のことをどんどん片付けていく、というのは日常生活でも結構重要なことだと思う。気が重くても哀しくてもご飯食べたりお風呂に入ったりといった生活面についてはどうしたってやらざるをえないわけだし、生活しているうちになんとかなることも結構多い。実践的なノウハウをDVD付で販売というところで結構お勧めの本になるかも。

知らずに差をつける!絶対成功する営業術

著者名;渡瀬謙 発行年(西暦);2005 出版社;日本文芸社
 営業スキルというのはおそらく実際に「営業部」かどうかはともかくとして必要かつ重要なスキルだと思う。営業の最大限の仕事は顧客の抱える問題点を発見し、問題点の解決策を編み出すことということになるだろう。その結果が販売結果ということになるのだが、顧客あるいは消費者よりも高い水準の商品知識や問題解決能力がなければ実は営業部はつとまらない。ということで高い販売水準を誇る営業部員というのは、知力が一番重要で、口がうまいのへただのといったことは指して重要ではないのではないか。そうした個人意見を持っていたが、この本を読んで益々その意を強くした。
 著者は精密機械、リクルートそして独立したデザイン会社の営業と大企業・情報産業・出版業の3つの営業スタイルからクレームの対処方法や他の会社の営業部員からぬきんでる方策などを紹介。名刺は個人情報開示の最初の手段なのでいろいろ工夫を要する、あるいはクレーム処理を迅速におこなうとかえって顧客と親密になれる、さらには上司をクレーム処理にかりだすことや、キーパーソンの見分け方だど具体的なスキルについての紹介が満載。前々から営業部員の仕事は現実からいかに問題点を発見して、しかもそれをわかりやすく顧客や社内の幹部にプレゼンするかが重要だと認識していたので、これまでの自分の仕事のスタイルからも納得できるスキルが多い。営業部のみならず営利関係でビジネスをする人にはなんらかのメリットがあるのではなかろうか。

年金会計とストックオプション

著者名;中央経済社 発行年(西暦);2004  出版社;伊藤 邦雄・徳賀 芳弘・中野 誠  
 退職給付会計の問題は実は解きやすいが、しかし問題を解くだけではこれだけの理解は得られない。退職年金資産という言葉からは信託銀行に信託している有価証券の運用をイメージし、実際の収益率については市場の変化により獲得されたキャピタルゲインをイメージすればよい。そしてその期待と実際の差額については数理計算上の差異として償却され、徐々に費用として処理されることになる。また簿記の問題などで用いられる退職給付債務は予測給付債務(projected benefit obligation)であって、昇給率など数々の予測数値を織り込んだもので、アメリカの会計基準がABO,つまり過去と現在の給与水準をベースに退職給付債務を見積もるのとは対照を描いている。だがこの本では本来PBOを用いるべき米国基準がABO(accumulated benefit obligation)を採用した政治的背景などにも言及しており、とにかく理解が深まる。
 企業の貸借対照表では年金資産に貸借対照表能力は認められないが、これは支払うべきキャッシュ・アウト・フローは、企業外部の信託銀行に生ずるからで、年金資産と退職給付債務を相殺する理由は年金資産の公正評価額だけ企業の「義務」(キャッシュ・アウト・フロー)が免除されたことを意味すると考えればよいのだろう。また過去勤務債務や数理計算上の差異などが遅延認識される理由として給与水準が高まれば労働意欲なども向上し、その効果が将来にわたって発現すると期待されるからと説明される(過去勤務債務の場合には確かにそうだろうが…)。数理計算上の差異は予測の差異であって、退職給付制度が長期にわたる制度であることから、基礎率の変化は翌期間以後の変化で相殺される可能性があるということで遅延認識される。図解も大量に行われておりいろいろと応用が利く内容。しかもストック・オプション会計についても言及されており、専門書籍としては異例のわかりやすさと面白さであると思う。

社員生活マニュアル

著者名;浩事務所 発行年(西暦);1996 出版社;情報センター出版局
 マニュアル世代向けの労働基準法などの紹介。退職金制度は就業規則や労働協約に頼るしかないことや、中小企業退職金共済事業団制度などの紹介(会社が掛け金を事業団に払い込んで事業団から退職金を本人に支払うシステム)また失業給付などの紹介も。ただし昨今の財政状況の悪化からマニュアルに紹介されているより失業給付の締め付けは相当に厳しくなっていることなど種々の制度変更は念頭において読んで置かないと。
 お葬式や食事のマナーなど最低限のマナー講座なども。一応結婚式のご祝儀は2万円などと紹介されているがこれもケースによるだろうし、一応の目安ということになるのだろう(管理職が部下の結婚式で2万円とかだと相当に白い目でみられるのが日本社会というものだし)。
 出産育児一時金の30万円支給…って今ではどうなっているんだっけ?

お金に学ぶ~東大で教えた社会人学~

著者名;草間俊介・畑村洋太郎 発行年(西暦);2005 出版社;文藝春秋
 前作の「人生設計編」よりも面白いし、前作にはやや「ファイナンス」とか「お金」とかが個人の人生設計中心の著述で、とても国立大学の学生にふさわしい内容とも思えなかったが、今回はラストに日本経済の状況などが理系の学生向けに紹介されており、タイトルとは裏腹に国全体の指針までみつめた本として評価できる。先物取引とか外貨建商品とかの説明はやや退屈ではあるが、これもまた実態を良く知らない学生にとっては国の予算などの話にいきなり入るよりも、むしろいいのかもしれない。「交際費と本代」の重要性やお金の魔力などにも説明がさかれ、自己投資が一番という結論に至るまでの検討も十分なされている。学生向けと限定せずに、新社会人とかにもお勧めできる生活設計や経済入門の本といえるだろう。
 巻末にはお金にまつわる格言集も収録。「悪銭身につかず」など経験則からうまれた格言が2~3ページで紹介され、内容も合わせて読めるようなデータベースとしても利用可能。やっぱり本だけは実際に買わないとね…

なぜあの人とは話が通じないのか?~非論理コミュニケーション~

著者名;中西 雅之 発行年(西暦);2005 出版社;光文社新書
 絶好調の光文社新書の中で、さらに名作を発見。コミュニケーション論といった内容はどちらkといえば言語学などの難しい本が多かったが、この本では営業などにも応用がきく具体的な非言語コミュニケーション論を展開。トラブルの発生、パワーと人間操縦法、フェイスワークなど魅力的なテーマが多数収録。
 営業などでもそうだろうが、「相手」と「自分」との社会的人間関係のコンテクストを把握することが重要とされ、この社会的人間関係を不透明なままにするとかえってコミュニケーションが阻害されるケースなども紹介。「友達以上恋人未満」といった具体例が紹介されており、たしかに位置づけが不安定なままではスムースなコミュニケーションの展開は難しいものだと納得できる仕組みになっている。人間関係のとりもちが下手というのを嘆く必要性はないとも筆者は指摘しており、人間関係やコミュニケーションなどのスキーマは人生を生きていく上で自然と学ぶものだが、その発達度には個人差があり、営業が下手とかどうとか言う前に、状況に対応するスキーマをまだ学習していないと考えるべきとしている。学習可能なことであれば、課題を設定して学習していけばよいので、仕事上の人間関係などはもちろん学習可能課題として自分でスキルアップできるということになる。
 タイトルはやや誤解されるかもしれないが、内容的にはいろいろな局面で使えるであろうスキルアップのヒントが満載。お勧め。

直観でわかる数学

著者名;畑村洋太郎 発行年(西暦);2004 出版社;岩波書店
 数学の本なのに「面白い」。面白いというのは、これまで定理・証明という手続きで説明されていた数学をまず「直観」で説明してそこから定理におりていくという手法をとるからだ。だがしかし、一つ弱点があるとすればやはりある程度数学の素養がないといきなり行列や対数関数のイメージといっても難しいことかもしれない。すべていったん履修してからイメージで振り返り、日常生活と乖離しないように数学を学習するというアプローチはかなり有効だが、いきなりこの本から入って複素数や虚数まで理解できるようになるとは思えない。ただ「思い込み」とか「使えない数学」といったイメージから、いかに日常生活に密着した数学の活用方法を自分なりに編み出していくのか、といった点はこの本を読んでて感じたこと。
 普段の生活から離れて抽象的な世界で記号や数字をもてあそんでも、あまり意味はない。むしろイメージとデジタル、日常生活と抽象的な思考のバランス感覚みたいなものが必要なのだろう。続編もベストセラーの仲間入り。そして現在もこの本はベストセラー街道驀進中だが、内容が充実しているだけにそれも当然。おしむらくは価格がなんと税抜きで1900円ということだろうか…。

2007年11月17日土曜日

見せかけからはじめるステップアップ仕事術

著者名;和田秀樹 発行年(西暦);2005 出版社;ぶんか社
 この本はコンビニエンスストアで購入したのだが、夜の暇な時間にミステリーや雑誌と同様にこうしたビジネススキルの文庫本を購入する人も増えてきたということか。ただし内容的にはこれまでの和田本とは異なる。いかに印象をよくしたほうが「得か」といった視点でかかれているわけで、会社の風土が保守的な場合にはあまりに「自分が、自分が」とアピールするとかえってつぶされる結果もありうるだろう。だからまあ適度に読んで使える部分は使うという発想になるのだろうが。
 問題解決能力を検討するさいには、自分自身の能力や環境の分析をすることなど手段としてはスキルアップと指して変わりはない。ただし、ある程度「筋を通す」というスキーマを人に与えておくことは大事でいったんスキーマを形成することができれば多少そのスキーマにあわない行動があっても解釈は人によって異なる。要はふだんの心がけというのは認知科学的にもスキーマと認知的不協和という概念で十分科学的に説明できる。いわばよいスキーマをいかにして形成してそれを維持していくかということになるのだろうが、それが実は一番大変なことなのだろうと思う。

イギリス精神~「紳士の国」のダンディズム

著者名 ;小林章夫 発行年(西暦);1994 出版社;PHP研究所
 ダンディズムの発祥はどうやらボウ・ブランメルという人物にいきあたるらしい。イートンからオックスフォードに進学するがもっぱら関心は「自分のことだけ」。オックスフォードで後にジョージ4世となる皇太子と出会い、中庸にして洗練された生活スタイルを維持する。ジョージ4世が太りだすと「ビッグベン」とよび、一種傲慢な態度もみせたりする。ダンディズムの原点は「反逆の精神」であり、ヴィクトリア王朝の時代、つまり産業革命の時代に客死したブランメルの生き様はその後ボードレールたオスカー・ワイルドにも受け継がれるわけだ。19世紀のヨーロッパではぐくまれたダンディズムとその後の英国の現実主義との関係を考察。「ハワーズエンド」などにあらわれるカントリーハウスやアマチュアリズムといった題材にはことかかない英国文明論。やや手をひろげすぎた感は確かにあるが読んでいてあきない歴史文化エッセイ。

日経新聞の徹底活用術

著者名;宮崎正弘 発行年(西暦);1996 出版社;三笠書房
 わりと昔からデータ重視の新聞社というイメージが強い日本経済新聞ではあるが、このインターネットの時代にあってもその優位性はゆるがない。イデオロギッシュな論調はむしろ各種掲示板のほうが「民意」を反映しているともいえるし、最初からどういうことをいう人なのか予測がつく人のコメントやインタビュー記事を読むよりもある程度事実や数値を示してもらったほうが、意思決定には役に立つ。とはいえ日本経済新聞の徹底活用というわりにはまだ活用し切れていないような印象も受ける。データだけなら各種ポータルサイトでグラフまで引用することができるわけだし、もし「読み方」というものがあるならば自分自身の「分類」もしくは「目的意識」に沿う内容を拾い出して体系付けるということに他ならないのではないか。毎日新聞だけ読んでいても知識は絶対に増加しない。情報と知識は異なるものだし、人間は自分自身のテンプレートを拡充してくれる情報もしくはテンプレートの更新をしてくれる情報こそが真に貴重な情報といえるわけだから。
 そうした意味ではこういう本も、もうそろそろ別の切り口が必要になってくるのかもしれない。特に自分自身のテンプレートに影響がある内容ではなかったしなあ…。

ヤミ金融の手口

著者名;別冊宝島編集部 発行年(西暦);2003 出版社;宝島社文庫
 ヤミ金融業者でも6割回収できれば上等なのだという。利息が法外なだけに貸し倒れても利益は上がっているということか。とにかく客を店によんでしまうのが商売のコツで最初から担保だの保証人だのはあてにしていない。「ろくな奴は来ない」と業者は断言する。ではどうやって回収するのかというと金券ショップを利用してたとえば額面10万円の金券ショップを借り手に売って、借り手はその十日後にさらに安い価格で金券ショップに再販売する。この手法だと利息制限法にも出資法にもひっかからないという手口。さらにパチンコ客をターゲットにした携帯電話による3万円程度の融資。利息は一日一割から3割だ。そして自己破産や個人版民事再生法の適用の紹介といったやや退屈な法律論をふまえて貸している側の論理、つまり取り立ての厳しさも紹介していくがここが圧巻だ。とても政府系金融機関や都市銀行の行員がこんな真似ができるわけがない。「この商売、取立てが命」と断言するヤミ業者にとっては裁判所の支払い督促を悠長にまつわけにはいかない。そして数々のノウハウのあげく結論は「結局取立てとは執念ですよ」という凄みのアル発言で終わる。

 が、最近月末のATMではあちこちの口座に小分けにしてお金を振り込んでいる人が多い。おそらくそのほとんどが消費者金融から借金をしているのだろう。だがそれでは自転車操業であるうえに都市銀行ですら高利の消費者金融事業を開始した。「自己責任」と最終的には法廷で糾弾されるのであれば最初から金利が暴利もしくは高めのところからの借金は絶対にしないこと。それに限るのではなかろうか。

不肖・宮嶋史上最低の作戦

著者名 ;宮嶋茂樹 発行年(西暦);2001 出版社;文藝春秋
 「週刊文春」「マルコポーロ」といった雑誌でいわば突撃取材的な写真撮影で有名になったカメラマンだが、なにげない人情の機微をとらえた静かな写真も美しいし、それに文才がある。これからさらにいろいろな分野に展開していく才能ある人ではなかろうか。どこまで本気なのかはわからないが、かなりの愛国主義者であって西暦ではなく時間を表現するときには皇紀○○年という表現を用いる。ノルマンディー上陸作戦の記念祭典に取材に行くときには、「そのとき日本はインパール作戦の泥沼の中」であり、ドイツ軍は連合軍を上回る30万人の死者を出した…といった表現となる。
 第2章では北朝鮮への潜入ルポ。もちろん写真つきである。そして3章ではモザンビークPKOに同行。「愛国の至誠は烈火のごとく」「しかし死ぬにも死に方がある」といったくだりで個人的には大爆笑した。で、結局自衛隊のキャンプには宿泊できずなんとポルトガル軍の居候となって取材をつづけるのである。第4章ではCIA秘密訓練センターに潜入。そしてさらにエリツィン突撃取材の最中にフィルムが…。
 そして数々の自衛隊の実地演習の同行。冬の八甲田山にも同行取材している。そして神戸。大震災の直後の自衛隊の救済活動にも同行。静かな瓦礫の写真と笑いの中に突如あらわれる涙のあふれる瞬間が感動的である。「そんなん、やったもの勝ちですがな」とわらいとばす豪快でしかし繊細なカメラマン。第2作目だが勢いは全然止まっていない。

宮沢賢治~縄文の記憶

著者名;綱澤満昭 発行年(西暦);1996 出版社;風媒社
 「商業」に対して「農業」に生きた宮沢賢治。父親との確執と日蓮宗への傾倒。そして柳田邦男が「山男」(稲作を生業としない人々)の研究から離れていったのに対して縄文時代、つまり稲作をせず自然と共生しようとしたライフスタイルに作品の根源をみる。また稲作は近畿に発生した王権国家の国家政策の一環だったともしている。本来の日本文化は稲作文化よりも幅広く奥深いものであったはずだが、それを具現化していたのが宮沢賢治だったのではないかという指摘である。また性欲や食欲をとにかく抑制して作品に昇華しようとしていた様子も紹介されているが、どうにも本全体の中では落ち着きは悪い。生産性や分類することで「大人」になるという分類があるとすれば宮澤は子供と大人という分類さえも拒否していた、そして大人になることへの拒否についても相当なエネルギーを消費していたのではないかという論調で、ちょっと面白い宮沢賢治論ではある。

ビジネスマンのための知的時間術

著者名;野村正樹 発行年(西暦);1995 出版社;PHP研究所
 「知的に」時間を過ごすとはいっても人それぞれ。この著者はやたらに人間観察や風景観察に時間をあてることを推奨するのだがそれもどうかなあ。ただし、ゆとりがあるからこそアイデアと富がうまれ、忙しいからこそ手紙を多用するべきだという主張にはうなづける。やはり手書きで書いてしかも切手をはって投函するまでの「心配り」というものは、それなりに相手には通じるものがあると想う。特に年賀状には手抜きをせずに時間をかけようという主張にも賛成。また人生を20年に区画割して、それを点検して次の20年を考えるというように20年筒のライフプラン立案というのも結構具体的で実践的。気がついたならばもう40年たっていた…ではどうにもならない。10代があって20代があり、そして30代があって40代がある。前の10年間の蓄積があってこその次の10年というのは多分あると想う。
 デジタルとアナログの使い分け。そして具体的なマナーと思いやりとの関係。結構この使い分けができない人って多いだけに手書きの効用というものももっと見直していいはず。手書きの手紙とか絵葉書というのは確かに自分自身でももらって嬉しいものではある。

頭のいい情報活用術

著者名;宮崎正弘 発行年(西暦);1999 出版社;三笠書房
 インターネットなどについての言及はあるが、やはりデジタル機器による情報整理についてはやや手薄。その代わり新聞の切り抜きや社説の読み方などには独特の評論を示す。一見、不要に見えるさまざまな情報を交錯させることによって新たな事実や見解がうまれてくるという主張には賛成。したがって雑然とした知識をいかに体系化して自分自身にとりこんでいくのかといったところまで評論が欲しかった。やはり情報を整理して活用することだけでビジネスもしくは営利事業になる時代なのだから、一つの作家に集中して経済評論を読んだりといった特化型の情報収集と濫読して自分に適合するものを取り込んでいく方法と2種類あると考えるべきなのだろう。
 自分自身にとってのオピニオンリーダーを確立するとともに、本当に大事な知識や技術にはどうしてもお金がかかるものなのだから、そこにケチってはならないなどということも感じる。やはり優れた本であればそれなりに高いし、高い技術を習得するにはそれなりに時間とお金と体力を犠牲にする。情報活用というよりも情報の仕入れについて深く考えるところのある本だった。

生きる勇気がわく言葉

著者名 ;夏村波夫 発行年(西暦);1997 出版社;河出書房新社
 要は名言集なのだがこの類の名言集はやはり面白い。だれのどのような言葉を収録しえいるかで実は作者の人生観も推測がつく。個人的にはデューイの「強い意志と弱い意志の主な相違は知的なものであってそれはどれほど粘り強く十分に結果をかんがえぬくかという点である」とか、「人一度これをよくすれば己はこれを百度す」(中庸)とかいう言葉に印象を受ける。要は一回でできるひともいるけれど、そうでない人は100回やれ、ということなのだが…。「しゃくとり虫のかがむのも伸びんがため」ということわざも面白かったな。
 「勝たんとうつべからず、負けじと打つべきなり」(吉田兼好)とかいろいろイメージはわくのだが、いつまでも手元に置いておく本でもないので、この一回でもう読み返すことはないだろう。

家系から歴史を読む方法

著者名 ;歴史の謎を探る会 発行年(西暦);2000 出版社;河出書房新社
 歴史に関するエピソードが順不同でごたごたに並んでいる本。う~ん。ある程度通史がわかっていてそれでこうしたエピソードを読むときにはいいかもしれないが、正直つまらない歴史本だった。
 唯一面白かったのだがフッガー家の発展の歴史をコンパクトにまとめた箇所。14世紀末に衣服をアウグスブルグで扱うようになってから頭角を現し、15世紀にはベネチアから南ドイツ一体まで商圏を拡大した。そしてその頃ヤコブ・フッガーが現れ、布をベネチアに運び、代わりに香料や織物を仕入れてくるという商売をした。さらに16世紀前半の宗教改革のころ、フッガー家はカソリックだったのでハプスブルグ家とむすび、マクシミリアン1世やカール5世の誕生などを経済的に支援。さらにローマ教皇がメディチ家からハプスブルグ家に変わると教会の造幣局的な仕事も請け負った。その後スペイン・ハプスブルグの多大な債務を抱え込み、領地所有から貴族として生き延びるという道を選ぶことになる。アウグスブルグにはいまだにヤコブ・フッガーの立てた集合住宅が残るという…というエピソード。
 歴史物はやはりエピソード集では非常につまらんなあ、などという実感も覚えたり…。

ねじ式・紅い花

著者名;つげ義春  発行年(西暦);1991 出版社;小学館
 自分自身に何か誇りとかプライドとかがある人間にとっては「つげ義春」の漫画は毒薬のようなものだ。核心にはまったくふれない周辺だけをめぐる会話や日常的な生活の中に突然あらわれるヤクザの刺青や不倫や会社倒産、貧困といったものがスルスルと描写され、そして「ため息」や「無言」といった漫画では想像できない技法や最後には粗筋すら存在しないゲンセンカン主人やねじ式といった歴史的名作がここに今もある。
 文鳥を殺して悲しむバーの女とそれをみつめる男の冷ややかなまなざし。人間の残酷さというか暗黒面と、そしてそれを忌避するギリギリの倫理観のようなもの。そんなものがすべて揃っている。確かにつげ義春は天才だ。ずっとこれからも。

男三十代、今これだけはやっておけ

著者名;赤根祥道 発行年(西暦);1995 出版社;三笠書房
 30代の男性を3つのタイプにわけているところが面白い。①宴会タイプ(ムードづくり)②トップ屋タイプ(男の井戸端会議のチーフ)③仕事人タイプ(仕事中心の自信家)。ま、どうしても③のたいぷのほうが40代、50代にチャンスがでてくるのはもちろんだろうが、このトップ屋タイプのオッサンが今この時代にあっても相当数いsることのほうが問題。ヒトの噂話で時間をつぶすタイプなのだが就業時間とかにそれでいいのかなあ…。要は人生の見通しを早くつけて、適格な努力の蓄積を30台のうちにしておけ、というのがテーマなのだが、それが簡単にできないからみんな苦労する。ただし家庭も仕事も老後のこともある程度ビジョンがもてるのであればそれにむかって努力するのは少なくとも虚無的な人生よりかはずっといいとは想う。努力すれば報われる可能性は少なくとも高くなるというのがこの世の中ではある。幸運だけでは確かに、ちょっと、ねえ…。

図で考える人は仕事ができる

著者名;久恒啓一 発行年(西暦);2002 出版社;日本経済新聞社
 図式化することで理解を促進し、コミュニケーションを高めることができる。いわれてみるとあたりまえのことのようんだったが、この本を読むまでは図式化することよりも箇条書きに重点を置いていたのは確か。図解とはいわば「情報デザイン」なので完成度の高い図式化ができればできるほど理解や情報の整理もうまくいっていることになる。さらに関連した知識も体系化して構築できるので確かにそのメリットは大きい。
 前半部分は情報デザインとか問題の相対化など魅力あるテーマだったが後半部分がやや退屈。それでも役に立つ本ではあると想う。

ブランド価値評価入門

著者名;広瀬義州 発行年(西暦);2002 出版社;中央経済社
 見えざる資産、無形固定資産を中心に測定の困難性や不十分な測定がもたらす影響、さらに政府の対応や法律整備(知的財産保護)といったあたりまで論じられている。アメリカの先行事例を基礎にした翻訳書籍だが、すでに知的高等裁判所など日本でも法的保護や法的紛争についての法整備が着々と進みつつある印象を受ける。資産・負債の定義はFASBによるものであるので、日本の会計基準だけの知識では読み解くのは辛い部分もあるかもしれないが、法律関係分野では日本と共通する部分も多く、またラストには重要用語集も記載されているので、索引とともに書籍の活用をするには便利な本。

歴史のバルコニー

著者名;加瀬俊一  発行年(西暦);1993  出版社;文藝春秋
 主にナポレオン1世、ナポレオン3世による第2帝政、イタリアムッソリーニ、さらに英国エドワード8世とシンプソン夫人との愛など時代的には近世で、いわゆる英雄と恋愛関係、それに政治状況をからめるという手法の歴史本だが非常によみにくくて辛かった。エピソードとして的がしぼれていないので、ナポレオンの妹ポーリーヌの話が主人公なのかあるいはナポレオンの家族全体がテーマなのかも不明。ナポレオン3世を扱うにはもっと事実のバランスをうまく配合していかないと、ちょっと読み物というよりは感想文みたいな本だ…というのが率直な印象。で、特段に新しい歴史的解釈そのほかはなにもないひょうにも思える。

会計制度改革の卵

著者名;小田正佳 発行年(西暦);1999 出版社;税務経理協会
 国際会計基準導入の背景、それから事業ポートフォリオと会計、連結財務諸表、キャッシュ・フロー計算書(この本でアメリカでは間接法が主流で直説法で作成しても間接法で再作成することを知る)、税効果会計、いわゆる時価会計、退職給付会計といったあたりの「基礎」を読める。必ずしも筆者の認識とは一致しない部分もあれど、1株あたり純資産を下回る株価というのは確かに貸借対照表への信頼をゆるがせることだし、将来キャッシュ・フローで適格に事業を評価することで、より適正な経営戦略が選択できる可能性も高い。市場の変化が早くなってきている以上、制度改革のスピードも速くなる。入門書としては確かにいい企画だとは想うが、残念ながら価格が1800円というのは定価、時価、公正なる価格?…

生と死の解剖学

著者名;養老孟司 発行年(西暦);1993 出版社;マドラ出版
 アリエルの「第1人称の死、第2人称の死、第3人称の死」から始まり、「死」というものが冷静に語ることが出来るのは第3人称の死だけだとする。意識の有無が生きている状態なのかどうかもはっきりしないことも指摘され、解剖学を通じて実は生死とか男女とかそうした言葉がもつ断言をひたすらに疑う姿勢をくずさない。そして最後は文明論に入るが、未来予測のための情報化などではなく、むしろそうしたグローバルなところとは無縁な辺境から何か新しいモードがでてくることを予測している。
 人間はデジタルではない。生死、男女といった概念すらもデジタルで処理はできるが、実際に他の動物のオスメスといった分類と人間の男女とを比較してみると、そう簡単に「男性であること」「女性であること」も規定できないことにきづかされる。
 「規範」からはずれること。決まりきった分類から逃れてみること。第三者の視点とはもしかすると解剖という作業から、何か別のものをみつけだす筆者のような姿勢のことをいうのだろう。

エッセンス簿記会計

著者名 ;新田忠誓 発行年(西暦);2004 出版社;森山書店
 現在の簿記というものは非常に扱いが難しいとは思うが、まずは独特の目次を組んで、その困難さに挑戦しようとしている。重要用語なども最初の方に置かれているが、なにをもって選別したのかその基準は不明。ただし用語説明といったコラムがこれから掲載される入門書が増えることはいいことであろうとは思う。会社の設立活動などから始まり、それから販売活動や資金の支払いなどといった企業活動から仕訳処理を説明していくわけだが、一種のケーススタディ的な学習効果をねらったのかもしれない。ただしあまりにも独特すぎて勘定科目も実務指針とは異なるものがあえて使用されており、入門書にあるべき「一般性」がやや掛けている印象も受ける。
 ちなみに参考になったのは重要用語の取立の説明。
「小切手や手形の代金などを徴収すること」とあるだがしかし、その対極にあるべき「取り付け」の説明がないというのがいかにも不可思議…。

ゴルフとイギリス人

著者名;尾崎 宴 発行年(西暦);1997 出版社;筑摩書房
 ゴルフ好きの英国人というのは良く知られるが、日本の神戸のゴルフクラブもこの英国流を取り入れ、最初は女性禁止だったという。ヒューマニズムとユーモアの産物とされるだけあって、会社交際の道具としてのゴルフというよりもあくまで個人の趣味としてのゴルフが英国では追求されているようだ。その起源はスコットランド説というのがあり、羊を追うだけの生活を楽しませるために発明したのが理由とかいうがちょっと弱い。オランダのヘットコルベンというホッケーに似たゲームがオランダからスコットランドに伝わりゴルフになったという説。そして実はイングランド説。グロスター大聖堂のステンドグラスにゴルフでスイングをしているように見える人物が描かれているのが根拠。最も根拠がありそうなのはやはりローマ説。クラディウス1世の時代に地道にブリテン島の支配が進められ(クラディウス1世はネロの父親でアグリッピナに毒殺されてしまう皇帝)、その後ネロが在位してからはノーフォークのイケニ族やブリトン人とローマ軍との間に相当な戦闘がおこなわれた。このときブリテン島に派遣されたのが司令官ユリウス・アグリコラで、鎮圧に参加するとともに、街や学校などインフラを進め、道路も作った。その後さらにスコットランド人を北部においやるという指令をうけてその使命も果たしている。その後ライン川流域の戦いのために本土に呼び戻されるが、122年ごろからはさらに北部イングランドを東西に横切るハドリアヌスの壁が構築される。で、このアグリコラがブリテン島にやってきたときにローマから「パガニカ」というゲームをもってきたらしい。これがゴルフの起源になったという説である。ローマ自体は407年にブリテン島を撤退するが、その後サクソン人やアングル族などが新しい支配勢力としてこの島にやってくる。ローマ化されたケルト人はウェールズやコーンウォール、アイルランド、スコットランドへの逃れていくという形。時はすぎて1363年、エドワード3世は「フットボール」や「闘鶏」などを禁止するが、それと一緒に「カンブカ」も禁止するとしている。これがどうもゴルフのことをさしているらしい。ちなみにエドワード3世がそんな法令を出したのはもっと軍事練習をせよ、ということだったらしい。1457年には公式書類にて「golf」が記入され、スコットランド王ジェイムズ2世の議会がゴルフ禁止法令を出している。ただこのジェイムズ2世もいわゆるバラ戦争ではイングランドに攻め込んでおり、ゴルフ禁止令と軍事増強のなんとはない関係もうかがえる。それだけこの時代にゴルフはイングランドやスコットランドでは流行していたともいえるかもしれない。16世紀になってスコットランドはヘンリー8世に敗北。(王妃を6人かえてうち2人は打ち首にした人)。スコットランドの敗因はなんとゴルフということになったらしい…。
 またエリザベス女王の影の存在、スコットランド女王メアリー・スチュワートの逸話も面白い。16歳の時点でフランスのアンリ2世死亡のため、スコットランド女王とフランス王妃を兼任することになる。が夫を18歳でなくしスコットランドに戻り、ヘンリー・スチュワートと結婚。後のイングランド王となるジェイムズ1世を出産。ただ夫が不審な死をとげ、その後さらに再婚したボスウェル伯爵と仲良くゴルフ。その節操のなさに国内外から非難がまきおこり、退位を余儀なくされ、息子がジェイムズ6世として王位へ。さらにメアリーは反乱軍を組織するが、エリザベスにとらえられ、19年間にわたり軟禁されるが、エリザベスの監視のもとあちこちに移転するがそのたびごとに「ゴルフができるように」と頼んだという。で、エリザベス女王の後をつぐのがこのメアリーの息子で、相当にまたゴルフが好きだったらしい。ジェイムズ1世としてイングランドとスコットランドを統治したが国民の人気はいまひとつ。長男がすぐ死亡したため、次男がチャールズ1世となる。エリザベス1世によってイギリスルネサンスは大きく花開いたわけだが、その後クロムウェル率いる革命軍はそのイギリス・ルネサンスを見事に破壊してしまった。グローブ座も閉鎖されたままだったというが、王政復古までの20年ばかりはゴルフコースもおそらくほとんど閉鎖されていたとおもわれる。1660年に大陸に亡命していたチャールズ2世が帰国して王位につくと、ゴルフはふたたび人気をとりもどす。で、これまではスチュワート家を中心としたゴルフの歴史だが、19世紀後半にはヴィクトリア王朝のもと中産階級もゴルフを始める。
 ゴルフそのものよりもこれだけ困難な歴史の中、つまりは清教徒革命、フランスとイングランドとスコットランド、カソリックとプロテスタント、中産階級と貴族階級と種々のややこしいことがあるにもかかわらず今では日本の日曜日にはゴルフが昼の番組として中継されている。日常生活を昔から考えてしみじみしてみるのも悪くないゴルフの歴史と英国の歴史のリンクバージョン。ゴルフができない人にも面白い読み物だと思う。

デジタル産業革命

著者名 ;山根一眞 発行年(西暦);1998 出版社;講談社現代新書
 やや内容が古いために、現在でもすぐ使えるとか応用できるとかいう箇所は少ないが、それでも1994年当時からこの10年間のパソコンの進化はとんでもないスピードだったことがよくわかる。「情報商品」という言葉が使用されているが、確かにパソコンは、商品構成のあり方を変えた。21世紀の産業革命がどのような形であれ、これまでの有形固定資産ではなく無形固定資産中心の経済にむかうであろうから、早い話、パソコン一つでオーディオセットもテレビもラジオも代替できるし、メモ帳や資料整理もできてしまう。私自身も相当に書籍や書類を抱え込むタイプだったが、だいぶ書籍自体は減少してきたし、必要な情報は辞書や専門書籍よりもインターネットで得ることが増えてきたように想う。
 とはいえ書籍には書籍なりのよさというものがあるわけではあるが…。「提供される情報がタダだからこそその周囲には巨大な金が動く」という発想にもなるほどと想う。たしかにタダではあるけれど、その後のアフターコストその他を考えてみると、実はそれなりに経済効果は大きい。無料で参加した会員に宣伝用のバナーを提供することはもしかすると、テレビでコマーシャルを流すよりも宣伝効果が高い可能性もあるわけだし。古いなりには古いなりのパソコン論はそれなりに楽しめる部分もあり。

物語 イギリス人

著者名;小林章夫 発行年(西暦);1999 出版社;文藝春秋
 イギリスという言葉が4つ(ないしは5つ)の地域あるいは国家を総称するものとして、ステレオタイプな英国人象を徹底的に「楽しむ」本である。ジョン・ブルについてももちろん章がさかれているが、個人的に一番興味深いのは、インド帰りの大富豪ネイボッブとよばれる新興成金階級の章でネイボッブの有名な人物としてトマス・ピットがいる(親子二代にわたって首相を出すピット家)。それから18世紀前半に英国を統治したウォルポール。1714年にジョージ1世がイギリス国王に即位するとウィッグ与党体制が固まっていく。その最中、英国では南海泡沫事件が発生。株価が急上昇下の地に急落するバブル経済のさきがけとされる場面にウィルポールはたちあう。ここにきてジョージ1世は意欲をなくし、ウォルポールが首相として、責任内閣制の担当者としてこの事件の後始末を始める。このとき、南海会社が引き受けていた国債を株式に転換させて半年ほどでこのバブル崩壊を鎮圧。さらに「国富」を増加させるために、戦争回避の外交をつらぬく。スペイン継承戦争などいろいろな事件はあったが、大英帝国は商人国家をめざす。ナポレオンはそうした英国を称して「商人の国」といったが、その承認の国が最終的にはナポレオンを破り大英帝国として栄えていくのだから、このウォルポールの穏健な現実主義路線、戦争回避路線(もっともそのためには一種の買収工作なども辞さない面はあったらしいが)を貫く。ウォルポールの息子は父親を称して「偉大なる庶民」(ホレス)といったらしいが、なんとなく英国人の政治家の一つの断面をみるようだ。

IT革命に生き残る知的仕事術

著者名;児玉光雄 発行年(西暦);2001 出版社;成美堂出版
 もともとスポーツ生理学などでも業績を上げている著者はノウハウの学習と実践によるノウホワイとのバランスを重視している。情報を入手したあと、アウトプットをどうするかというのは非常に難しい問題。スピード、夢、行動力といった言葉が踊るが、それはだれしもITの時代に考えること。おそらくは、一定程度の情報の蓄積がされた後に再び誰もが考えなかったようなアイデアでこの電脳空間を改革する経営者は現れることと想う。
 ナレッジマネジメントにせよなんいせよ、結局は目的と手段との関係にすぎない、ぐらいにしか自分は考えていない。アナログな共同体意識がないところにパワーポイントなど持ち込んでも意味ないし、最低限の数学ができなければエクセルの表も意味がない。となればやはり目的と手段のスキルアップはそれぞれ別個に向上させていってどこかで調和していくのが一番なのだろう。今はまだ過渡期でアナログとデジタルとのバランスがとりにくい状況ではあるが、デジタルで一攫千金ということではなくてアナログがデジタルを利用してなんらかの蓄積なり作品がうまれる時代がくるのだと考えたい。

大人のケンカ必勝法  

著者名;和田秀樹 発行年(西暦);2005 出版社;PHP研究所
 教育評論や老人精神医学がご専門の和田先生だが、確かに実社会でなにかと論争とか問題になったときには具体的に使える例が満載。とはいってもどれもそう簡単に誰もができる技ではないが、まずは感情的になったほうがもちろん「負け」だし、最終的にはギャラリーの判定を見積もるという要素が重要かもしれない。
 私利私欲で動く人は勝っても支持はされないなど、「確かにあたりまえ」ではあるがあたりまえすぎて見過ごしていた部分は大きい。実際声が大きい人間が議論で勝つことはあってもその後、買った人間の意見が集団のリーダーシップをとるかどうかはまた別問題でもある。最終的には「実績をみせる」ということにはもちろん尽きるのだが、老獪なのは「明らかに」「相手が間違っている」と想われる場合には、面従腹背で相手が自滅するのを待つという指摘。コレは確かにわかりやすいし、しかも自分自身の意見を述べなくても、相手の意見どおりにプロジェクトがうまくいけばそれでよし、失敗すれば相手の責任で自滅という究極の選択だったりする。もっとも部下が全員こんなに老獪になってしまったら世の中の管理職がほとんど全員討ち死することになる。「サラリーマン金太郎」みたいなやたらに突っかかっていく部下とか上司とかもしんどいが、かつての広島カープのように相手のミスが発生するまで徹底的に守りに入るという野球もかなりしんどいものである。うん、面白い!!

いまを生きるための歎異抄入門

著者名 ;佐々木正 発行年(西暦);2001 出版社;平凡社
 法然という人の弟子が親鸞にあたり、この二人がいわゆる「専修念仏」という新しい形態の仏教を始めた。おそらく当時としては新興宗教の部類に入るのだろうが、特段に出家することなく魂の平安を必要とする人には、やはり必要な宗教改革だったといえるのかもしれない。もちろん曲解して当時の「東の国」では悪者であればあるほど救済されるなどという当時の「混乱」も紹介されていたりする。もともと貴族の出だった親鸞が正統派である当時の仏教でのエリートの座をすて、仏教徒でありながら当時禁制とされていた結婚にふみきり流罪となり、それでもなお求めていたものはいわゆるエリートとしての救済ではなく、エリートになれないが苦しんでいる庶民のための仏教という発想ではなかったかと類推される。キューブラー・ロスや「夜と霧」などの引用や解釈もなされるのだが、そうした筆者の解釈はちょっと私とは相容れないものが一部あるものの仏教という世界が日本社会や経済社会の中ではたす、あるいははたしてきた役割について考える時間をくれた一冊といえる。かなり歎異抄からも引用がされているが現代文の翻訳もついているので読みやすいことは読みやすい。

インンディアンの夢のあと~北米大陸に神話と遺跡を訪ねて

著者名;徳井いつこ 発行年(西暦);2000  出版社;平凡社
 北米大陸の特に「インディアン」もしくはネイティブアメリカンの遺跡を紹介してくれる旅旅行記。プエブロなど有名な遺跡について相当語られているが、興味深いのは、「アナサジ」とよばれる先住民族の放浪の旅のあとの著述。学者によればそれは雨の減少や川の氾濫だったのではないか、ということのだが、その後あらわれたナバホ族やアパッチ族の脅威というのも説としてはあるらしい。だいたい950年から1300年ごろがこのアナサジの最盛期で、灌漑施設や道路網、巨大な建築物などがうまれチャコ遺跡などが残されている。その後は忽然ときえたわけではなく、リオグランデなどに一部移ったらしいがいわゆるプエブロインディアンがこのアナサジの「子孫」にあたるという説は非常に興味深く読んだ。ここでいう「過去」とは「どれも最近の出来事」ということらしくネイティブアメリカンの時間の流れと近現代の時間の流れの差異を感じることも出来る。そして多くのこのプエブロ、アナサジの子孫たちはとんでもなく長大な「神話」を有しており、それがまた面白いのだが、その神話については無限宇宙の彼方や世界と人間の創造から始まる旧約聖書なみの膨大さではあるが筆者はそれを簡略に紹介してくれている。歴史とは無縁と想われた北米大陸のコロンブス発見前の世界史。面白いです。

よのなか

著者名 ;藤原和博 発行年(西暦);1999  出版社;筑摩書房
 元リクルートの社員にして現在は公立中学校の教職員として働く、まさしく「ヨノナカ」を知り尽くした大人のある意味挑戦的なテキストである。セックスや暴力とかいったテーマにも逃げずに取り組み、藤原氏はかつての自分自身の中学生時代の「ささやかなワルコイコト」なども紹介されておられる。ハンバーガーの価格をもとにした国際経済の入門などは非常に導入としては面白いわけだが、やはり一番挑戦的なのはラストの宮台真司氏の論文であろう。
 ニーチェなどを引用しつつ題材は売買春であり、しかも導入部にはニーチェである。中学生によませていいのかどうかわからないが、多分よませたほうがいい題材だと想う。ニーチェの神は死んだ…という言葉をわかりやすく転用し、「今をどれだけ濃密に生きることが出来るか」と問いかける。「意味がみつからないから良い人生がいきれないわけではない。逆に良い人生がおくれていないから意味をみつける」というように。
 確かに人間は意味(物語)ではなく、「強度」(体感・感覚)などで祭りなどの行事を通じて生きてきたわけであり、意味がさきにあったわけではないのに、そこに意味や物語をみつけようとしている。そして近代社会は「意味」をみつけることによって成立してきた…と見事な切り口である。そしてすすめられるのは世界とうまくシンクロして、強度や感性といったものを世界から引き出す術をみにつけないと非常に厳しい…といった鋭い指摘がなされる。おそらく確かに昔は「意味がないから生きていけない」という人が多かったのかもしれないが、今は「世界が楽しくない」「社会に面白みがない」という人間の方が辛いのではなかろうか。そこで進められるのが「一生懸命になること」であって、幸せでもなく不幸でもない人生というものがいかに辛いものかがニーチェをとっかかりに分析されていく。
 そこには絶対性とか論理性とかではなく(つまり近代の教えではなく)偶然に左右され、それにさらされることによって逆に強度が増してくるという見方もでてくるというわけだ。そしてここで日本語として「しょせん」という言葉と「あえて」という言葉の違いに注意を喚起させる。「しょせん」‥だからやらないのか中途半端なのか、あるいは「あえて」不利だからこそやるのかやらないのかといった濃密さの違い。そして売春の動機を金銭ではなくいわゆるマズローの「承認動機」にもとめ、傷つくこと・癒されることといった問題提起にからめて人間の複雑さを描きとる。「性欲は自分ではなく自分の中にある他人である」という指摘にはギクとする。
 男性は自分が自分にたちかえるためにセックスをし、女性は自分でない自分に身を任せるためにセックスをするという2分割思考はやや誤解を招く表現かもしれないが、少なくとも「意味」ではなく「強度」の世界へ近代社会が変換しようとしている現実の一部を社会学者らしく描写しているとは想う。そしてラストに近くなると「日常性の安定性」を確保するために「非日常性の空間化」がなされるという指摘までしてしまう。そして「今」「ここ」をいかにして楽しむか、コミュニケートしていくかということがいかに重要なのかが結論として示されていく。セックスや暴力が本来近代社会の中では意味の体系(結婚や戦争)の中にシステム化されていたものが、その範疇にはおあさまりきれない「濃密な体感」へ拡大していく現状。そして個々に今、そうした「体感」と「ともに生きること」「社会の存続」との両立のテーマを探るというのが最後の問題提起となる。
 理由が不明な犯罪というのはおそらく「意味」ではなく「体感」の世界なのだろう。しかし全員がそれをやってしまえば社会は成立しない。それを野放しにするわけにはいかない。で、なぜこうした論調がラストにきたのか。それは教育という世界あるいは学問という世界で、「体感」や「感性」といったものを感じることができるのではないのか…といった暗黙のテーマ提起に思える。
 論理というのはしょせんは「ただの仮説」。ただしあえてその「仮説」をとなえることで社会の存続と意味の解体とのバランスを図るというのは今後21世紀の日本にとっては大きな課題になるし、また意味を超えた感覚、あるいは神に頼らない濃密な人生といったものをいかに選択肢として、あるいは人生の先輩の実例として示せるかといったことにもつながる。「ヨノナカ」とはとどのところ論理は最低限の問題で現実ではおそらくほとんど感性だけが頼りの世界でもある。そこで意味を放り出すことなく、終わりがないあるいは果てしがない日常生活をいかに感覚的に楽しみながら生きていけるか。
 内容はきわめて濃い。面白い教科書副読本だが…文部科学省は認めない内容だろうなあ、きっと。だって官庁なんで終わりなき日常そのものでしかないし、法令という物語の中だけにしか存在できない組織体なのだし。こんな本が出版されてしまうこと自体が非常に「刺激的」で、すばらしい。

子供たちは森に消えた

著者名;ロバート・カレン 発行年(西暦);1993 出版社;早川書房
 あまり読後感のいい本ではない。実際にソビエト連邦時代に発生した12年間に50人以上の幼児や売春婦を殺害し、しかも当時のソビエト連邦ではグラスノスチ(情報公開)がなされていなかったから、日本はもちろんソビエト人民の中でも事件のことを知らされていなかった人が多数いるというわけだ。これは確か映画化もされたと想う。
 どちらかといえばチカチーロという犯人像よりも警察の捜査がうまく運ばない理由の一つに当時のソビエト連邦の秘密主義、あるいは社会主義賛美のムードがあったというように分析されており、犯行手口があまりにも稚拙すぎて12年間も野放しにんされた理由は確かに当時の社会情勢にもよるものなのだろう。当時はソビエト連邦では犯罪の発生率は西側諸国よりも低く凶悪犯罪も低いとされてきたのだが、歴史というのはある程度時間がたたないと真相がはっきりしないこともある。被害者の子ども達の写真が一覧で掲載されるなどニューズウィーク記者でもある著者の冷静ぶりが逆に圧巻。ただし、読後感はきわめて悪い。

週末の知的生活術  

著者名;現代情報工学研究会 発行年(西暦);1995 出版社; 講談社
 タイトルとは裏腹に仕事においまくられて、週末だけ単身赴任から家庭に戻ったり、仕事の狭間でボランティアをやったりと、確かに知的ななおかもしれないが、現代の過酷な労働世相を逆にうきぼりにしてくれている。なんせ単身赴任ですることがないから休日出勤をして部下に問い合わせの電話をする…とか悲惨な話まで紹介されている。
 やはりものは工夫次第ということなのかもしれない。自分自身もいろいろ工夫はするけれども、やはり最低限のことだけやって、それ以上どうにもならなかえれば「投げ捨てる」という覚悟も必要かな、とか想ってしまった。つまり、追い詰められてしまえば、知的に生きることよりも、まず「生き延びること」だけを考えるというのもあり、だと想うのだ。

オルフェウスの窓①~③

著者名;池田理代子 発行年(西暦);1995 出版社;集英社文庫
 南ドイツの古都レーゲンスブルグの音楽学校に二人の転校生がやってくる。二人とも専攻はピアノで片方は苦学生、そしてもう一人はアーレンスマイヤ家という当主は元統一ドイツの陸軍情報部にいて、ビスマルクのもとで統一ドイツの実現化のために働いた人物だった。その音楽学校にはオルフェウスの窓とよばれる窓があり、ギリシア神話のオルフェウスとエウリディケの逸話(エウリディケは死に、黄泉の国から戻る途中、オルフェウスは振り向いてしまう。そしてその後オルフェウス自身も女性たちに惨殺されて川にながされてしまう)にならい、最初にその窓からみた女性と恋におちるが悲劇的な結果をむかえるというものだった。初めて読んだのが多分10年前。そのときはもう無茶苦茶に感動して、ベートーベンのピアノ協奏曲を聴きまくったものだが、今改めて読み返してみると、特段にまだベートーベンへのこだわりというよりもモーツアルトのソナタやリスト、それに「ニーベルンゲンの指輪」など他のクラシック音楽も題材に取り上げられている。よほど当時はベートーベンとこの漫画がだぶって印象づけられたのだろう。それにもともと連載されていたのはさらに現在よりも30年前という名作に属する作品の読み直し。1ページごとに、以前読んだページが手になじんでくるのを感じる。
 第一巻では、ロシア革命前の活動家クラウス、地元の有力商人キッペンブルグ家のモーリッツなどが主人公の二人のほかに描写され、イメージとしては南ドイツからずっと東の方向をみているような感じである。まだニーチェやマルクスが読書禁止とされていた時代でもあるし、ワーグナーのニーベルンゲンの指輪がお祭りで実施されたりもする。またドレフェス事件(フランスで発生したドイツのスパイ容疑事件)や日露戦争なども多少扱われている。陸軍将校のドレフェスがスパイ容疑で無実の罪で逮捕されるとともに、逆に右翼のブーランジェの革命などフランスもゆれていた時期だし、対ドイツに対する強行な意見もでていたころである。ドイツ帝国の成立は世界史の上では1871年。一応立憲君主制だったが実質的な権限はビスマルクが握っていた。この人、南ドイツのカトリック教徒の弾圧(文化闘争)や皇帝狙撃事件をきっかけにした社会主義者鎮圧法の制定(1878年)などいわゆる「ムチ」の政策と社会政策・外交政策をやって人気取りをしたりとしたたかな政治家だった。フランスの姿がみえない漫画だが、ビスマルクの外交政策はオーストリア・イタリア重視でフランス孤立化政策だったのでやはり視点が東に向くのは当然かもしれない。ロシアも当時は貴族がおこしたデカブリストの乱が失敗し、いわゆる農村などへでかける行動をとるが、ニヒリズムやテロリズムの発生が顕著にみられたという。クラウスは15歳にして、テロリズムに参加。ロシアの秘密警察に南ドイツまで追われてきた「大物」ということになるが、はたして当時のロシアにそこまでの余裕があったのかどうか…。1890年にビスマルクは辞職し、ウィルヘルム2世が就任。さらにドイツが大概進出もねらおうという機運もこの漫画の舞台となりうるだろうか。ただ当時レーニンはイギリスに亡命中で、しかもドイツ経由でロシアに再入国したケースも多かったというからクラウスのような存在も確かにレアケースとしては存在していたのかもしれない。愛用のバイオリンはなんとストラディバリウスなのだが、革命を目指す人間がそんな何億もする楽器をもって南ドイツの音楽学校になぜ潜伏していたのかは非常に不可解ではある。
 

オルフェウスの窓④~⑤

著者名;池田理代子 発行年(西暦);1995 出版社;集英社
 いよいよ物語は少年時代からはなれて青年時代へと移る。イザークはバイエルンの町レーゲンスブルグからウィーンへと移り、国際的なデビューを飾る。またロシア皇帝の隠し財産をめぐる秘密も明らかとなり、ユリウスは「一種のけり」をつけた後にクラウスを追ってロシアへと渡る。それぞれが少年時代をすごした南ドイツを離れてオーストリアあるいはロシアへと活動の場所を移したわけである。そんな中、オーストリアの皇太子殿下夫妻がセルビアで暗殺。オーストリアはセルビアに宣戦布告、セルビアを支援するロシア、そしてロシアと同盟を結ぶフランスとが戦争へ、さらにオーストリアを支援するドイツがさらに参戦して第一次世界大戦が始まる。そして8月4日にイギリス、8月23日に日本と戦局は拡大して、オーストリアもインフレーションを迎えるとともに、イザークはまたピアノ演奏が不振に。指が動かなくなり、かつてのレーゲンスブルグへといつしか戻る。元娼婦との妻の間に出来た子供を抱えながら…。
 ほろにがさをかもし出す④~⑤という段階となり、戦争そのものが直接には描写はされないが、物価の変動という形で国際的ピアニストの苦境を描く。そして「生活」というものに圧迫されながらも少年時代の純粋さを忘れずにいる大人たちの一群も。売春関係などかなり切迫した状態を描きつつも、なぜか未来志向でいきる主人公たちが切ない。
 ドイツ自身はこの当時ウィルヘルム2世が統治していたわけだが、中近東に着目したいわゆる3B政策(ベルリン・ビザンティウム・バクダッド)を展開するとともに、ロシアとの二重保障条約を破棄。オーストリア、イタリアとの三国同盟を重視する一方で露仏同盟、日英同盟、英仏協商などができあがる。ドミノ的にロシアとオーストリアが戦争となれば、これらの国々がバルカン半島をめぐって世界戦争になるという不安な時期だったわけで、これはしかしナポレオンの時代にべートーベンがピアノソナタ「英雄」を作曲した時期ともだぶるのかもしれない。漫画には実際のピアニスト、バックハウスも登場し、その力強い演奏は現在、日本でもCDを通して聴ける。一回目に読んだときにはわざわざ買いに行ってバックハウスの演奏を聴きながら漫画の世界に入り込んだものだ…。ロシアはセルビアなどにスラブ人だけの統一国家樹立をよびかけて接近(汎スラブ主義)、ドイツ、オーストリアは汎ゲルマン主義だったから国益の問題も絡み非常に微妙な時期。ドイツ自身はフランスを対象にした西部戦線拡大路線に失敗しつづけている…。どちらかといえば、ベルギーを横断しての北フランス侵入などドイツ、オーストリア側のほうが国際世論の前には分が悪いわけだが漫画ではそうした状況は書かれていない。実際に銃弾が飛び交う世界よりもやはり「時間よ、この地域だけはとまっておいておくれ」といいたくなうような南ドイツの世界を中心に世界状況をほんの少しからめる程度だったと想われる。途中、ロシアからオーストリアへスパイ工作にきたバイオリニストなども登場するが、これも演出の一つであろう。音楽学校の中では唯一ピアノに生きるイザークはその後、この2つの巻では他の登場人物の誰よりも日常生活の世界や娼婦の世界、そして国際的な名声といった2つの極端な世界を行き来しつつ、芸術と格闘する「偉大なる魂」を演じ続ける。「ジャン・クリストフ」とか「魅せられたる魂」をどうしても思い出してしまう展開なのだが、これはこれでやはり意識的な演出なのだろう。中年に至るまでの純粋な世界から世俗世界の常識との戦い。物語は文字通り2部に入り不倫、浮気もありありの世界でさらに高みをめざすことを登場人物たちは義務付けられる…。

2007年11月16日金曜日

人生賛歌

著者名;美輪明宏・斉藤孝 発行年(西暦);2004 出版社;大和書房
ある種アナログの天才ともいうべき二人の対談である。斉藤孝にとっては自著の「質問力」「対話力」を実践していることになるが、そうした気負いは感じられない。
 妙な話でこうした対談で行われている内容はかつて学校教育で取り扱っていたことのようにも思う。文化の継承ということに関していえば、日教組の教員の方がある意味しっかりしていた面も実はあった。カウンターパンチとしての社会民主主義は結局のところ、21世紀にには「プチ右翼」(西部進)を世の中に蔓延させることにもなったという皮肉な結果ではある。日本人の文化や伝統の継承を破壊したのは軍国主義であり、続く戦後民主主義であると美輪が糾弾する。軍国主義から戦後民主主義、そしてポストモダンから現在の無思想状況へと連なる系譜が一刀両断だ。
 営利主義についても厳しく指弾されているが、それについてはよくわからない。ただし学校が文化を継承する場所であるとするならば、単純にプチ右翼的な言動をとるだけでは、あまり意味がなかろう。それにかつての「左翼」といわれた人々はもう組織すら幻想に近いものがある‥。
 自分を肯定しつつ、さらに自分を客観的に見て、さらに文化の流れの中で100年先をみて生きる。けして楽な道ではなく、そしてまた「保身」に走りがちなわれとわが身の「醜さ」をこの本を読みながら自覚する。
 一種の「張り」がここにはあり、ここで発言した内容に二人とも拘束されるのを承知のうえで、出版しているのだからそれだけでもたいしたものだ。
 「美意識」というもの、そして多様なジャンルについての好奇心というものを、じっくり考えていくこと、。そしてまたビジネスという単純な言葉の裏に文化の継承があるということをしみじみ自覚する。いい対談本である。
 「ビジネスとは相手の隠れた需要を突っついて、それを表に出させるものだとおもうのですが、その相手がどんな需要をもっているか、どこを突っついてもらいたいのかを感じる感性が現在の日本男性には足りないんです」
 「経験の世界や暗黙知の世界が大きくないと発想のネタが生まれてこない」
「日本画の絵の具は、岩絵の具で自然の石を粉にしてひいて粒子にしてそれを膠においてとかすんです。膠と水の加減、絵の具によって違うんですが、膠を土鍋を使って炭火で暖めながら小皿に移してお湯をたしていく。紅でもいろいろな紅がありますが、それを指先で加減しながら、好きな色になるまで膠と混ぜていくんです。そうやって自分の色を作っていくんです」

オルフェウスの窓⑥

著者名;池田理代子 発行年(西暦);1995 出版社;集英社
 舞台はイザークがウィーンで苦悩し始めていたころにさかのぼり、ロシアへと移る。再び日露戦争で苦境に立つ極東政策の見直しと国内の労働者階級の反乱に手を焼くニコライ2世。そしてそのもとで怪奇な権力をふるう怪僧ラスプーチンの様子などが描かれ、クラウスが貴族出身ではあるが、メンシェビキに加入し、なぜにオーストリアにいっても追われる重要人物になったかも描かれる。くしくもその後をおったユリウスはロシア軍人のレオニードの家に「軟禁」される。
 1825年に貴族階級が起こしたデカブリストの乱で生き残った貴族たちの末裔がそのままメンシェビキに参加…そしてナロードニキ運動に発展していくのは、確かにありうる話かもしれない。ニコライ2世が即位した後、ある程度資本主義化を進めていこうとしたのは確かで工場なども設営されたが、漫画では工場経営者が女性をレイプする場面まで描かれる。その状態で社会民主労働党が結成され、クラウスはおそらくこの社会民主労働党に所属しつつ、ボルシェビキとメンシェビキとの対立や、レーニンやブレハーノフの亡命などを横目でみつつ南ドイツから再びロシアへ再侵入したものと想われるが、その一方で各地でロマノフ王朝に対する反乱、とりわけ軍部内部でも反乱が発生した様子なども描かれると同時に、皇帝に忠誠を尽くす将校までもがラスプーチンによって左遷されていく苦い状況も。時間軸としてはイザークとほぼ同時期ではあるが、ユダヤ人居住区への軍隊の粛清など、血なまぐささはウィーンのイザーク以上の展開。ピアノやバイオリンも小道具としては用いられるが、演奏されている場面はなく、ひたすらにゆれるロシアの中で生きる恋人たちの様子が描写。地域としてはオーストリアもロシアもさほど大きな違いがあるとは思えないが、まだある程度余力があったハプスブルグ王朝ともう後がないロマノフ王朝との差異が漫画の舞台の差として出てきているとも思える。

潜在力開発メソッド

著者名 ;斉藤孝 発行年(西暦);2004 出版社;マガジンハウス
 おそらく何かを習得するさいには、なによりも大事なのが「反復練習」であるに違いない。資格試験(それも簡単なもの)を何度か受験しているうちにそう考えるようになった。基礎・基本はあまりやっていて楽しいことではない。しかしそれを反復練習することで一種の基準や型ができてくる。それを本番の試験にもちこむのが最良ということになる。
 潜在能力とはこれまでに蓄積した経験やノウハウのことであり、それを活用するさいにスポーツ、勉強というように領域を狭めるのが妥当とは思えない。一つの経験を他のジャンルに横断させていくことが重要なのだ。一番の要点を反復するとともに、自分のものにしてしまうことが重要だ。自分自身の中である種の「質的変化」が起きるまではそうした反復練習を続けるしかないのだろう。たとえばマンション管理士にしても、単純な問題演習と復習という作業を、自分自身の中でなにかしらの「質的変化」が起きるまで続けるのが一番良いということになる。勉強というのも要領であり、自分自身にとって成功体験が得られた勉強方法を他に活用するというのが一番よいのだろう。
 とにかく実践が必要だが、実践の次には自分自身のノウハウを確立することが重要だ。感性だけではやはり限界がある。斉藤孝氏の本はその著書を1冊だけ読んだのではいわんとするところがあまり明確に伝わってこない。しかし、何度も反復し、別の角度で切り取られた著作物を読んでいると次第に内容が伝わってくる。これも読書の一形態なのだろう。

 「感覚の習慣化」っていう言葉が出てくるのだが、これはスポーツであれなんであれ、すごく大事なことだと想う。もちろん最初は何がなんだかわからないわけだが、それが形を整えていくにつれて「何かが違う」と感じる心のようなもの…。オリンピック代表選手の清水氏の言葉に「たとえすごく嫌なプレッシャーの経験をしてもそこから逃げるんじゃなくて、むしろそれ以上のプレッシャーに飛び込んでいく」というような言葉に感覚とは無意識に獲得するものではなく、ある程度意識的に「技」として習得するべきものであるということも感じる。「自分で自分を鍛える」という清水氏の言葉には、おそらくオリンピック選手として目的に至るまでの明確なプロセスが自分で理解できているからこその発言だろう。まずは目標を意識化してその次に練習を意識化する。こうして言葉にするのは簡単だが、実行に移すのがいかに大変なのかはだんだん自分にもわかってきたところではある。

オルフェウスの窓⑥~⑦

著者名;池田理代子 発行年(西暦);1996 出版社;集英社文庫
 第一次ロシア革命が失敗に終わりを告げ、貴族出身のクラウスはメンシェビキからボルシェビキへと活動の場所を移す。いったんはシベリア流刑になるも再び脱獄して、モスクワに戻ってくる。そして海外に亡命していたレーニンなどの活動家もロシアに戻ってきた。一方ラスプーチンも暗殺され、ニコライ2世は退位する。そして暫定政府が樹立されたが、さらにロシア内部では、争いが続く。同じころドイツでも反戦運動が巻き起こりウィルヘルム2世は海外へ脱出。ニコライ2世が捕らわれた3月革命ののち樹立された臨時政府が第一次世界大戦の継続を表明したため民衆は失望。首相のケレンスキーはそれでもたくみに権力のトップの座につくも、クラウスと記憶を失ったユリウスは再会。そしてユリウスはクラウスとの間で契りを結び懐胎するが…。
 ひたすら暗くそしてシベリア流刑の様子は精神の安定を欠いた囚人や看守にオモチャにされる女囚人などの様子も残酷に描き出す。これでもかこれでもかといわんばかりのロシアを舞台にした、あるいはクラウスとユリウスを中心にした物語は、ドイツ以上に資本主義体制や社会体制が未整備だったロシアに共産主義や労働運動が急速に浸透し、反皇帝主義と強く結びついていった様子がわかる。ただしどれもが窮屈なイデオロギーに縛られているため、フランス革命のときよりも登場人物の顔はどの立場であっても暗く重い。…この作品を書いたころの池田理代子氏はおそらく30代前半。どうしてここまで見事な作品をその年齢でつむぎだすことができたのだろうとおもえるほど、その筆は残酷なまでに大きな歴史の中で揺れる三人の若者の「愛」が描かれる…

創造学のすすめ

著者名 ;畑村洋太郎 発行年(西暦);2003 出版社;講談社
 もともと工学部の設計にたずさわる著者は「失敗学のすすめ」でベストセラーとなり、その名をしらしめた。そのころから若干気になる著作物が多く、新刊が出るたびに種々の本を一応読んでいた。とはいえ、「失敗」から「学習」するというのは、オカルトビジネス本の類でも、よく述べられているところであり、いまひとつ実感としてイメージが伝わってこなかった。とはいえ、逆演算的に失敗から「創造」ではなく、順演算的に「創造」をつかみとっていこうというこの本ではある程度畑村氏のいわんとするところがつかめてきたような気がする。とはいえ設計の立場からみた創造であり、ある程度、クリエイティブな仕事にたずさわった人間には「なるほど」ということになるのかもしれないが、営業・経理といったビジネス分野では、まだ応用できる部分が少ない本ではある。
 とはいえ、「要素や構造の組み合わせによって新しい機能を果たすものであること」と創造を定義し、要素や構造の学習をとおして創造へ向かうそのスタイルには好感がもてる。いわゆる天才肌の人間には暗黙的な知識はあれど、形式的にそれを凡人が学習することができなかった。この本では天才の学習や創造のプロセスを学習できるのだからすばらしいといえる。とはいえ難易度が高く、いっけんただの読みやすいビジネス本にみて実は手ごわい。用心しながらもう一度よみかえしてみたい本である。
 
 特に「仮想演習」という項目が興味深い。できあがった脈絡をシミュレーションによってたどりながら、全体の脈絡を正すプロセスというように定義され、これって問題演習で概念や知識の整理をするのと非常によく似ているなあ、などとも思う。また仮想演習によって環境の変化に対する別のシミュレーションも想定できるようになるという指摘も非常に有益だと思う。

オルフェウスの窓⑧~⑨

著者名 ;池田理代子 発行年(西暦);1996 出版社;集英社
 最後はおそらく主人公たちは30歳を越えているはず。ボルシェビキが暫定政府を倒して史上初の社会主義政権がうまれると同時に、ユリウスは南ドイツに戻り、失われた記憶に苦しんだ挙句、川に流される。まるでオルフェウスのように…。イザークは指を痛めてピアノは弾けなくなっているが、作曲をし、息子をバックハウスに預ける…。ほろ苦さとかつての少年時代を懐古してラストが飾られるわけだが、最初の夢と希望にあふれた音楽院時代と比較するとまるで別の物語のようなくらい、しかし未来に託す何かがある物語ではある。ロシア革命とドイツ統合といった伝統あるいは職人という存在がまだ残存していた地域にもちこまれた市場経済が急速な変化で人々を変化させていきつつも、音楽へのこだわりだけはだれしもがなくさなかった。今21世紀になってあらためて読み直してみて、これは19世紀と20世紀の物語であると同時にさらに21世紀にも進行している継続性のある物語だったのだ、とも気づく。

30歳からの10倍差がつく勉強法

著者名 ;和田秀樹 発行年(西暦);2005 出版社;PHP研究所
 いわゆる大人の勉強法の最新バージョンという感じだが、海馬に何度も繰り返し情報を送り込むことなど、これまでの著書の集大成とバージョンアップといった内容になる。「結果」の前に「方法」「手段」というのをある程度確かに考慮すべきだと思うし、これだけ情報が多数出回る社会になると、「○○がいい」「××が悪い」といった怪情報を含めてかなりのボリュームの試験対策情報などがネットにあふれる。で、これまでのところ、結局は自分で見て確かめないとなんともいえないし、確実な情報というのはやはりそれなりのところからしか入手できないといったところ。デマもあれば本当に有用な情報もあるのだが、それは自分が書店などで内容をみればある程度検討がつくようになるし、専門学校情報なども「大手だから安心」ということもなく、かといって「カリスマ講師」の授業を聞くだけではやっぱりダメで自分自身で悩んで考えた結果のほうがやはり将来性があるように思う。カリスマ講師の話は結局、1時間~3時間をきわめて効率的に過ごすことはできるが、その内容はやはり自分の頭が理解できる範囲が限度。「限度」がわかっていれば、活用するべき「範囲」も限定されてくる。ある程度法律をやっていないと優秀な法律のすばらしい授業を聞いてもどこがいいのかわからないのと同様に、ある程度悩んで「ドツボ」にはまった段階で、曇りが開けるようなコメントを連発してくれる授業が良い授業といえるのだろう。だからまあ、やはり自分の努力…ということに尽きるような気がする。で、この本の内容もある程度自分自身であーでもない、こーでもないと試行錯誤してきた場合にはさらにステップアップできる要素もでてくるように思うが、まずはいろいろ試してみて、それからこの書籍の内容を実践してみるのも悪くはない。資格ブームは景気の回復とともにおそらくさらに衰退すると思われるが、自分自身で何をすべきか、がはっきりつかめる場合には、周囲の「人気」「不人気」に左右されることなく、自分のめざす目標は次々と立案できようになっていくだろう。問題発見とか課題設定というのも、多分、現実の中でいろいろ悩まないと結局はだめなんだろうと思う。

生き方のスタイルを磨く

著者名 ;斉藤孝 発行年(西暦);2004 出版社;日本放送出版協会
 斉藤孝氏の著作について「そこが浅い」「ワンパターン」といった批判を耳にするが、個人的にはワンパターンとも底が浅いとも思わない。底が深く、しかも日本人の伝統様式に根ざした方法論・教育論を展開しているからこそ、多くの読者に訴えかける内容となっている。教育論の類はただ読んでいるだけでは実は意味がない。読者は自分なりにその意味やスタイルを掴み取り、それぞれの生活の中に活用できてはじめて「底」について論及することができるのだ。
 それにしてもこのNHK選書にある斉藤氏の著作物はどれも読み応えがある。この本ではバルザックやトーマスマン、メルロ・ポンティ、「黄色のゴッホ」といったスタイルを取り出し、身体感覚とスタイル、癖の技化といった概念を構築している。どれもスタイルとして確立されたものを斎藤氏なりの基準で並列化してみせたものだが、これはまた日本文化の伝承にもつながる。

 こうした一連の著作物についてはまだ自分なりの実践として活用できていない部分も多い。これからまた、独自のライフスタイルに活用していきたい内容をはらんだ一冊である

新・敵は我にあり

著者名;野村克也 発行年(西暦);2004 出版社;経済界
 元ヤクルト監督、元阪神監督、そして来期から楽天の監督をつとめる野村克也氏のエッセイ。
 旧版の「敵は我にあり」も読んだのだが、「基礎」ということをきわめて重視するとともにその「応用」も考える。こうした考え方は野球では嫌がられるのだろうが、個人的にはこれまで野村監督の考え方をビジネスに活用させてもらったことはいくらでもある。あきらめないこと、そして棒ほど願って針ほどかなうのだから、目標は下げないこと。生涯現役宣言をした野村監督はマウンドで倒れることを夢見ているのかもしれない。

 「反復演習」の重要性はすでにいたるところで確認されているが、野球にそれを明示的に持ち込んだのは野村監督が初めてではなかろうか。たとえばキャンプの練習については反復演習が多い時期と定義づけ、さらに「なぜそれをやるのか」を認識して繰り返すことが重要、とまで述べている。おそらくはただ単に素振りをするだけではなく、その素振りをどうしてやるのか、まで考えているほうが確かに技術の向上にはつながる。結果だけでなくプロセスを重視するという考え方はまさしく近代野球そのものだ。組織はリーダーの力量以上には育たない、というのは会社経営にもつながる考え方だが、基本戦略を立案するリーダーのその戦略が間違っていた場合、戦術レベルでの修正はもはやきかない。そのためにも①観察力②分析力③洞察力の重要性がとかれる。さらに判断力と決断力まで求められる資質としているが、こうした「力」を育成するには確かに、普段のプロセス重視の反復演習に加えて一種の感受性が必要なことには変わりがない。
 繰り返し読むたびに新たな発見がでてくるわけだが、野球についての本ではあるけれど、それを自分自身の日常生活にいかに「移植」していくか、ということが結構面白い実験にも自分にはなっている。

精神科医は何をしてくれるか

著者名;安藤春彦 発行年(西暦);1996 出版社;講談社ブルーバックス
 臨床心理士などがまだ国家資格となっていない時代の話で、しかもまだ一定の偏見が残っていたころの話である。人間の行動原理や病気の説明が主で、大きな原因はやはり「素因」とよばれる気質的なものにゆだねられ、哀しい出来事などは一種のキッカケにすぎないとする。つまり映画などではまりにもドラマチックなことが発生した場合に登場人物が平常な心因反応を失う演出があるが、実際には、そうした「異常な心因反応」を示すのはある程度もともと別の素因があったものと考えるべきなのだろう。
 決して指示を出さずまず「共感」を示す…といった点で、かなりこれまでの印象をくつがえす内容となっているが、発行されてから9年。さらに時代や病気に対する研究も進んでいるに違いないという印象をもった。
 また同じ出来事であっても正常な心因反応を示すケースと異常な心因反応を示すケースがあるという紹介については「夜と霧」で、早くに絶望してしまう人とそうでない人との差異を思わせて興味深い。

2007年11月15日木曜日

座右のゲーテ

著者名;斉藤孝  発行年(西暦);2004 出版社;光文社新書
斉藤孝氏の本はいわゆるノウハウ本のように結論を簡単に出さない。ゲーテの言葉を斉藤孝氏なりに解釈したテーゼが並ぶのだが、それもまたいたるところで矛盾をはらむものとなっている。それがまた「斉藤本」の魅力なのであるが。
 わずか2ヶ月で5刷であるから相当売れているし。この本をきっかけにしてゲーテに接する世代もでてくるのかもしれない。「若きウェルテルの悩み」は中学1年生のときに私は読んだが、現世代でそんな人はいないであろう。
 「実際に応用したものしか残らない」というテーゼはきわめて正しい。かなり多くの本を自分自身読んでいるつもりだが、その中で現在の自分に残っているものといえば、自分自身で工夫して活用したものだけである。人間は自分自身を「編集」するのではなく、他の世界を編集するようでなければならない。幾分かの矛盾をはらみつつそれでもなお一般教養と専門知識の獲得へのあくなき挑戦は続く。
   
 「テキスト」という言葉について「そこから意味を引き出す素材」として定義しているのが興味深い。興味関心が喚起される素材と考えれば、確かにいろいろな基本テキストをそのまま内容を受け売りするのではなくて、むしろそこからどうやって「意味」を引き出していくのか、といった創意工夫が必要になる。どうってことない一色の教科書からさまざまな意味や解釈をひもとく…といった作業までも実は書籍は可能にしてくれるツールなのだと読んでそう思った。

質問力

著者名;斉藤孝  発行年(西暦);2003 出版社;筑摩書房
段取りの重要性は日常生活でもよくいわれるところだが、この「段取り」という言葉を斉藤孝流に解釈したのがこのテキストである。著名な小説などをふんだんに引用して、この段取りという概念を「技」として確立させようとしている。もともとこの概念は斉藤孝氏の生きる力のひとつとして「質問力」とともに並べられていたものだが、やはりあらためてこういう形式で著作物として具体例を提出されると、読者としては多くの部分に納得する。しかしもちろんのことこうした本はただ読んでいるだけではだめで、実践に移す努力をしなければならない。
 続けるコツというのは、段取りを遂行している間は余計なエネルギーを使わないこと、という指摘などもある。もちろんホームページの最大のコツは持続させること。そして、この無料のページを使わせていただいて、情報の発信基地として何に気をつければよいのか、悪いのかを具体的に検証していくことで、自分の技として、この情報化社会を生き抜く力がもらえる。この本は多分何度もこれから読み直すことがあるだろう。「復習」こそがおそらく社会人の忘れている習慣なのだが、学生生活を思い出しても、こうした制度的な技というのは、長所は取り入れていくべきだと思う。
 体育会系・文科系を問わず、「技」を確立していくプロセスには大きな差異はない。ただし経験値を高める必要性はあるから、そうした部分を含めての「段取り力」ということになるのだろう。お勧めの一冊である。また新刊本も筑摩書房から発行された。

 具体的かつ本質的な質問、というのは非常に難しい。特にだれかが技能の向上について語るとき、その内容をイメージとして確実に受け取るのは大変なことは大変なのだが、適格な質問によってより深いエピソードなどを自分にひきよせることができる。こうした技術について語られているのだが、一種の武芸に近いものがあるような気もする。

自己プロデュース力

著者名;斉藤孝 発行年(西暦);2003 出版社;大和書房
斉藤孝さんの本といえば「声に出して読みたい日本語」シリーズがもっとも有名ではあるが、それ以外の独自のハウツー物もかなりの量産体制にある。斉藤孝さんの本にある程度共通して出てくる言葉に「質問力」「段取」「技化」「マッピング」といったものがある。モハメド・アリ、美輪明宏、ガンジー、チャップリンの自伝を下敷きにして、これまでのいくつかの斉藤孝さんの著作物を自己検証したふしもみえる。巻末の参考文献もまた有用。経済的な成功はともかくいずれもが独自の自己プロデュースをおこない、世間にその生き様を認知させた。独自のキーワードで伝記を読み解く技は、斉藤孝ファンにはまたたまらないだろう。同様の趣旨で一種の「技」を分析した本に同じく大和書房の「天才の読み方」も。各種の伝記のサマライズという要素もあり、1300円+消費税はまた格安という見方もできる。

天才の読み方

著者名;斉藤孝 発行年(西暦);2003 出版社;大和書房
ピカソ、ココ・シャネル、イチローといった天才を取り上げて、その仕事を「凡人」にも達成可能な段階までブレークダウンしてくれている本。仕事がある一定のレベルを超えた後は、仕事を遊びにしやすい、ピカソは精力をからさないように一定の努力をしている、「触発されるという技法」、「自分の内側に入り込んでいる風土を利用」、「陰で人の二倍も三倍も努力」、チェックポイントの集約といった天才の技法が紹介されている。一口に要約するのはきわめて難しい本ではあるが、それがゆえに試行錯誤のプロセスでいろいろな技法を試すことができる。単なるノウハウ本とは異なり、時代風土のバックボーンの理解も必要となる。シンプルなことを大量にやるというのも天才の技法であるとするならば、自分もまたシンプルなことを愚直に繰り返していくよりしかたがない。
 努力は人を裏切ることもあるが、そのときはまた、別の方向性の努力をするしかない。それが試行錯誤というものだが、その方法論は常に模索しておくべきであろう。そのときに読書というものはけっして無駄にはならないものだと思われる。

疑う力の習慣術

著者名;和田秀樹 発行年(西暦);2004  出版社;PHP研究所
試行錯誤力とあえて試行錯誤する能力について言及した前著に続いて、「疑う力」を解く新書版である。もともと情報化社会とはいっても信頼性と有用性が乏しいデジタル情報が現在日本中をかけめぐる。結局のところ一種の情報自体はインターネットで大量に入手することができるようになったが、それを取捨選択していく能力をみにつけなければならない。そこで「疑う力」である。
 現在のところ巨大マスメディアはまだその影響力を維持はしている。しかし読売ジャイアンツのオーナーにほとんど真正面から喧嘩を売っているライブドアのように新興情報勢力はその勢いを増している。デフレ不況ということもあり、新聞を購読しない家庭も増加してきたが、なに、新聞報道よりも2チャンネルのほうが大量の情報を入手できる可能性だってあるのだ。
 常識のその横・ちょっとしたずれを狙えという指示は的確だと思う。あまりに世間の常識にさからっていても世間がついていけない。1960年代、70年代の左翼世代がやってきた大きなミステイクの轍をふんではいけない。
  
 「思い込み」を排除するといったときにどうしても自尊心が邪魔をするときなどに読むのにはいいのかも。いわゆる偏見というものがどこからでてくるのか、といえば自分自身を疑えない場合に偏見は発生するわけで…。

ビジネスマンのための心理学入門

著者名;和田秀樹  発行年(西暦);2004 出版社;PHP研究所
心理学をビジネスに活用しようという理念は常々和田氏は提唱されていた。要は象牙の塔にこもる心理学ではなく、実生活に科学の成果を応用していこうという姿勢だ。それはかなり個人的には意味ある活動と思える。
 単純にはいえないが、ゆとり教育についての和田氏の考えには2つあり、それを使い分けていると思う。まずは子どもをもつ親としての意見だ。ゆとり教育の弊害を説くとともに、それを防止するための中学受験などを進めている。これは結構説得力がある。
 そして社会人むけには今の若い世代はゆとり教育でがたがたになっているから、中高年になってもあきらめる必要性はないと説く。これもまた説得力がある。必ずしもゆとり教育だからといって、すべての人間が数学的発想ができないということもないだろう。ただし実際の企業が新卒に対してかなり厳しい目をむているのも事実である。中高年にかけるコストが多少増加してもそれをうわまわる収益力さえあれば営利企業としては実はあまり関係がない。営業部員でコアとなる人間には65歳まで定年延長するという企業もでてきたが、新卒を5年間かけてベテランの領域にもってくるより、ベテランを5年継続雇用したほうが企業としても助かる局面がでてくる。
 認知心理学の入門書の書籍ラインナップも収録。認知科学をいかに日常生活に応用していくのかといった点でも結構面白い内容だ。

数学がらくに強くなる本

著者名;仲田紀夫 発行年(西暦);2002  出版社;三笠書房
 数字と数詞と数の違いなど、基礎の基礎から話が始まる数学の入門の本。数学にまつわるこうしたエピソードの集大成というのは、案外読んでみると楽しいもので、闘鶏の始まりについても商人ジョン・グラントがロンドンのペスト流行から始まったときの話から始まり、簡単な練習問題が解けるまでになっている。
 古代ギリシアから現在に至るまでおそらく「数」をめぐって種々の思索がめぐらされ、一部はピタゴラス学派のように神秘主義的なものになり、一部は商業活動に利用されて現在にいたる。
 小さな本だが、魅力ある話を満載にした本

自己愛と依存の精神分析

著者名;和田秀樹 発行年(西暦);2002 出版社;PHP研究所
 もともと上智大学での講義5回分をまとめたものということでやや硬い内容。しかし人間はそれぞれ違うものだからこそ共感の技術が大事という和田氏の主張の根拠がかいまみれる。心理学も経済学も一通り人間は同一なものとしてモデル化そいているがそこからこぼれおちる人間も結構いる。そうしたときに既存のモデルが役に立たない場合には、むしろ共感することがなによりの理解になる。理想化と鏡というのが人間が他人にもとめる役割だが、それ以外に人間同士という共感を加えてコミュニケーションがはかれるのかもしれない。学校でいえば教師は理想の対象として、そして同じ人間としての役割をはたしてはじめて生徒の理解ができるようになるのかもしれない。
 「鏡」「理想化」「双子」というのが一種のキーワードになるわけだが、ハインツ・コフートの心理学入門としてはお勧め。素人にも非常にわかりやすく、なおかつ日常生活にも活用できるように工夫されて著述されている。

和田式現役合格バイブル~受験生活編~

著者名;和田秀樹 発行年(西暦);2001 出版社;学習研究社
本書は主に大学受験生をターゲットとしたもの。名門私立灘高等学校から東京大学医学部卒業後、博士号を取得。老人精神学、教育学など種々の分野で論陣をはる。「朝まで生テレビ」などのテレビ出演も多い。
 おそらくこの極端な実用性志向については、ある種の人々には相性があわないものとも思える。しかし、実用性もしくは結果重視スタイルの人間には、大学受験突破スキル以上に得るものが多い本である。もともと日本の教育は「実学」重視で明治維新以降、制度化されてきたはず。それは江戸時代の儒学などの学問より「実」のあるもの、つまりは将来キャッシュ・フローに結実する教育を重視しようとする学制である。主に福沢諭吉がその路線をひいたはずだ。にもかかわらず1950年代以降、社会民主主義と日本の教育は不幸な結びつきをする。「平等」という神話であるが、実際の生活では「競争」「差別」「区別」「所得階層」といった種々の「差異」はいたるところでみられる。フェミニズムもそうした「性差別」にひとつの端を発しているといっても異論はないように思う。
 その中で、受験戦争肯定の立場にたつ和田先生は「親や教師の受験観にサヨナラを」と訴える。ことごとく同感である。
 現在文部科学省は「ゆとり教育」を実施しているが、OECDの学力検査や国内での学力検査で数学・理科系統の知識がかなり低下していることが数値として確認されている。さらには、公立高校・中学校がかつて「名門」として機能していた時代は終わりをつげつつあり、10数年前には問題にもならなかった高校は進学実績をあげている。
 「学歴無用」という企業が一見多いが、実質はいやらしいことに異なる。現にリベラルで売っている何某新聞社は公的な会社説明会とは別に、かつてはブランド大学の4年生に接待つきのリクルートを行っていたし、金融機関でもほぼそれは同様であろう。学歴は絶対条件ではないが、現実にはある程度の大学をでていなければスタートラインにもたてないケースはあるのだ。
 こうした現実をみるかぎり、たとえある種の分野(特に現実離れした平等論者や理想論者)の人々がどうあろうと、それなりの知識や自己の歴史はちゃんと確立しておくべきだ。高校生もしくは受験生のみならず社会人にとっても示唆に富む実用書である。

最強の勉強法~究極の鉄則編~

著者名;吉田たかよし 発行年(西暦);2003 出版社;PHP研究所  
勉強方法について語る書籍は多い。その中で自分にとって適合するスキルをいかにとりいれるかが、ポイントではある。著者は東京大学卒業後、NHK勤務をへて現在、医者‥ということだが、こうした試行錯誤がだれにも許容されているわけでもないので、なるべく人生の大事については勉強方法以前に、「よく考えること」「継続すること」の重要性についても考える材料にはなる。
 最近の勉強方法の傾向としては、認知科学や大脳生理学の根拠をもとにしたものが多い。この本もそうであるが①血糖値の低下の防止②声を出すことで前頭前野が刺激される③目を閉じれば脳波がα派に変わる④セロトニンの不足の防止⑤図表やグラフの指差し確認⑥映像化しながら記憶する⑦疑問に感じた項目を徹底的に掘り下げる⑧勉強の半分以上は専門用語の理解に費やす‥
 個人的にいろいろな資格試験の合格秘訣は「専門用語をいかに立体的に理解できるか」ということではないか‥と現在推論をしているので、その点では吉田たかよし氏のいわんとするところがわからないではないが、「要領のよさ」だけではなんともならない部分もあり‥。勉強方法としては、共感はしたものの何かあらためて新しい知識やスキルが身につくというわけでもない。
 ただしイチロー式勉強法として説明が「ボール」のところには手を出さない勉強というのは確かに使えるかもしれない。情報の選球眼というのは確かに重要だし。要は勉強というのは情報のインプット・加工・アウトプットの3段階と考えれば野球に良く似ている。

2007年11月11日日曜日

平成16年度楽学マンション管理士(住宅新報社)

初期に一回通読しただけであまり利用しなかった参考書だが、それでも直前になるとやはり手に取る。どれだけ進歩したのかをはかるためにもやはり基本書籍というのはある程度初期段階で読み込んでおいたほうがよさそうだ。

平成16年度マンション管理士試験対策法改正完全対策(TAC出版)

とにかく民法の抵当権などを含めた法改正が特集されているのだがなんと価格が税込みで840円‥。標準管理規約などに相当なページ数がさかれているが、抗議したいところではある‥。とはいえ購入した以上、持ち歩くことにする。感謝するかどうかは合否の結果による。

不動産用語辞典(日本経済新聞社)

日経文庫の中にある書籍でとにかく持ち歩きやすいので購入。実際にはある程度までは利用したが、マンション管理士よりはむしろ宅建向きの新書ではないかと思った。都市計画法関係の用語が多いが、どちらかといえばマンション管理士では建築設備系統の用語や図表のほうが調査しなければならないことが多かったということもある。日本不動産研究所の執筆なので改訂年度さえしっかりしていれば安心できる新書。

不動産営業マンに負けない本(講談社)

一部建築用語や法律用語がでてきて若干難しめ。内容的には優れているとは思うものの、いまひとつ評判が呼ばなかったのは、おそらく難易度がある程度高いためか。とはいえ、設計図の見方などの解説は、出色。1級建築士と宅建をもつ筆者ならではのノウハウが入っている。法律改正に対応していないので、その部分は割り引いて読む必要はある。

入門マンション管理(大成出版社)

細かい内容だが改正前なんだよなあ。あまり…役に立たない…(試験対策としては、という意味で…)

日曜日の住居学(講談社)

「人の顔はみな違うように家はそれぞれ個性をもつべきだ」(フランク・ライド・ロイド)の言葉が随所に引用される。
 お粗末なライフスタイルをまずは個性的なものに確立させようという建築家の意地がみえる本である。普段の生活がしっかりしていない人間に、新しい設備をかねそなえた空間を入手したからといって、長い間放棄してきた生活空間の充実などはかれないことを指摘。日常の限られた生活空間の中で最大の努力をしていない限り、どんなに優れた建築物を入手しても意味がない。そのことがこの本の主眼である。
 編集者にとって耳の痛い指摘も多い。「長年タッチしてきたという意味では一種のプロまたはプロ崩れ」「送られてきた封を開いてぱらぱらと5分もめくればだいたいの内容はすべて読み取れる」「住宅雑誌の編集者よ怒ることはない。建築専門雑誌にしたところで似たり寄ったりなのだ」「婦人雑誌の何冊かをバラバラにして組みなおして表紙をつけかえると、また同じ雑誌ができあがる」「それはポルノグラフィに似ている。性に関する欲望が幅広くそして奥深いものであることを重々知りつつ、人々はその上っ面にしか興味をもたない」‥住むということは、食べる、性といったことと重要に人生において重要な問題ではあるが、せいぜい住宅雑誌のレベルでしか「ライフスタイル」が語られないことへの警鐘である。
 さらにはリビングルームという空間への疑問もある。日本の住宅の2000年に及ぶ歴史の中でリビングルームという概念はせいぜい50年の歴史。しかもこのリビングルームという概念はアメリカによるもの(ヨーロッパではない)であり、ピューリタンの人間平等の思想・コミュニティの思想・男女平等の思想といったものが根底にあり、家父長制が今でも生きる日本でどの程度活用されているのかといった鋭い疑問も提示されている。南側の部屋信仰や家相信仰などもぶったぎるが、こうしたいわれのない思想こそ実は最大の「無駄」であり、キャリアアップの妨げにもなる要因である。
 みなが誰しも不動産を購入するからという理由だけで自分も購入する必要性はまったくなく、また周囲が結婚するからといって自分も結婚する必要などはどこにもにない。キャリアについて決定するのは自分だけだし、それについて他人は何かいうかもしれないが、責任はとるわけではない。「自己」というものを建築物から認識し、アメリカイズムを問う。この本はそうした入門書籍としてきわめて有用である。娯楽度やファッションなどにも活用できる思想性であろう。

天下無双の建築学入門(ちくま新書)

「建築学入門」と歌っている割には実は「すむところ」に関するエッセイ集となっている。いきなり磨製土器の話から始まり、以下「縛る技術」「竹」「基礎と土台」「石柱」「校倉造」「かやぶき」「芝棟」「建材」「戸」「照明」「台所」「縁の下」と続く。建築設備の話は受験参考書だけだときわめて退屈極まりない上にその後の発展性も期待できないが、この本を読むと多少は建築設備にも興味がわいてくるという不思議な効果が期待できる(少なくとも個人的には)。建物というのも一種の「歴史」をせおっており、文化でもあるということを認識させてもくれる。

(2007年7月29日)
 その後実際に出雲大社にいく機会があり、この本に書かれていた古代木造の「柱」が何を意味するのかに思いをはせる。また省エネルギー技術以外に、既存の耐熱版などをもちいて家を建築することで、クーラーや暖房の使用量を減少させるとともに、排出された暖かい空気を地中内に展開して、ヒートアイランド現象の防止にやくだてるといったアイデアが実現化しはじめている。

直前対策マンション管理士最重要問題集(東京法令出版)

東京法令出版の予想問題集。右下のポイントが結構わかりやすくて得点源につながりそうだ

(2007年7月29日)
当時は、問題集とテキストの両方の役割をもたせた直前問題集が多かった。ただし直前にとくべき問題はむしろ問題は素直で、解答と解説にボリュームがあるほうが、おそらく効果が高いと思われる。